広島県最大の部落は、原爆の爆心地から約2kmの場所にある。1935年の記録では982世帯、5693人という大部落は、原爆で90%の建物が全壊し、住民の10%が即死、60~80%が負傷した。
それでも、地域の産業、文化、コミュニティが完全に破壊されることはなく、部落としての福島町は残り続けた。
これほどの規模の部落となると、近世からの被差別地域というよりも、都市スラムである。戦前の航空写真を見ると、川に挟まれた場所に家屋が密集しているのが分かる。
かつては「川田村」という名前で、皮革産業があり、近代以降は屠場が作られて食肉産業が盛んになった。
最寄り駅は、平和大通りにある路面電車の福島駅。ここは部落のど真ん中のはずだが、広い道路と公園、西区役所があり、とても部落には見えない。
福島町は、むしろ戦後に大きく変貌した。この太田川放水路は、もともとここにあった「山手川」を大幅に拡張したもので、戦前から計画され、戦後に完成した。この辺りにも密集した家々があった。
一見したところでは、部落とは分からない。
福島町の北西には「都町」という細長い区域がある。ここは部落の西側を流れていた「福島川」を埋めた跡に作られた街だ。現在は民間の建物の他、公園や同和対策で作られた団地がある。
大規模な団地があるところは、阪神地域の都市部落と共通している。原爆被害からの復興、大規模な河川改修、そして同和事業により、もはやかつての部落の面影は残っていない。
これは「いきいきプラザ」。かつての隣保館だった。今は隣保事業は行っていないが、「人KENまもる君」と「人KENあゆみちゃん」のポスターが貼られていた。
西区役所の前にある案内図。隣保館を示す表示が塗りつぶされている。
公営の団地と民間のビルが入り混じっている。2003年の特措法期限切れと同時に同和事業を廃止し、現在は同和地区としての扱いはされていない。
これが部落の寺で、西本願寺の妙蓮寺だ。
工場もあるし、豪邸もある。
この、共産党色の強い薬局の二階は「ふくしま文庫」という私設図書館になっている。
福島町は部落解放運動の盛んな地域であるが、解放同盟ではなく現在の人権連の勢力範囲である。部落解放同盟広島県連合会は1969に「小森県連」と「藤川県連」に分裂し、福島町は後者に属した。後に、藤川県連は現在の人権連の前身である「正常化連」に合流した。そのため、福島町は広島県下最大の部落でありながら、解放同盟の中央本部とは対立し、それが同和事業のあり方にも影響したと考えられる。
そのため、今では地区内外で別け隔てをするようなことはないのだが、何だかんだで古くからの住民の割合が高いとの声も聞かれる。
この郵便局前の道路をよく見ると、2箇所微妙に盛り上がっている。これは、かつての福島川がこの道路を横切るように流れていたためで、盛り上がりは両岸の堤防の痕跡だ。
地域福祉センターの裏手にあるこの空き地は屠場の跡。戦前に煉瓦作りの屠場があり、原爆で多数の犠牲者が出たものの倒壊をまぬがれ、1960年まで同じ建物が使われたという。
屠場が移転したため、福島町には食肉産業はほとんど残っていない。ただし、福島町の食肉産業を発祥とする「ホルモン天ぷら」「せんじがら」という食文化が残っている。
福島町については、以下の本に詳しく解説されている。
藤川治生という人は広島市の部落の出身だったのでしょうか?
それは分かりません。
広島は部落多いけど、瀬戸内の安芸群島のあたりは少数点在部落が多いです。瀬戸内にあるものは水軍に由来する被差別部落が多いといわれてますね。
大崎下島の久比村や大長村が有名ですけど、非常に美しい場所ですから、釣りがてら探訪されると良いですよ。
瀬戸内の島には茶筅部落が多いようです。ただ、具体的に何をやっていて、現状は周囲からどう見られているのかという点には謎が多いです。
かつて西区役所の南には萬谷商店という老朽化した化製場があり、稼働時には腐臭が周囲に漂っていました。今は同市の佐伯区湯木町に移転しています。
福島町と言えば、そのルーツからホルモン天ぷらの有名な店が沢山あります。
そのうち一つの経営者と付き合いがありましたが、まあロクな奴ではなかったです。
問題は味です。また広島行くことがあれば行ってみます。
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