
全国連から「公開質問状 4」が 送られてきました
前回全国連の公開質問状への回答を返してからあまり経過していないのだが、また質問状が送られてきた。今回はその内容を紹介し、こちらから回答した内容も紹介する。
前回全国連の公開質問状への回答を返してからあまり経過していないのだが、また質問状が送られてきた。今回はその内容を紹介し、こちらから回答した内容も紹介する。
東京都青梅市の部落は今井と藤橋にあった。今井は水窪、藤橋は久保である。2つの部落は隣接しており、白山神社が共通であるから、一体と見ることもできるだろう。戦前、その戸数は93あった。 主な仕事は履物製造と農業と記録されてい […]
今回探訪したのは、五霞町(ごかまち)の堀ノ内という部落である。昭和初期の戸数は70。産業は農業のほか、棕櫚(しゅろ)表という草履の表作りであった。 草履表は竹皮によるものが多いが、関東では高品質な棕櫚表が作られていた。し […]
最近になって2ヶ月に1回くらいのペースで届くようになった、部落解放同盟全国連合会の公開質問状。「公開質問状3の1」までは紹介していたが、先日「公開質問状3の3」が届いた。年末の休み中に届いたために紹介しそびれてしまった「 […]
境町では、間中姓の分布が部落に対応していることが分かった。前回は坂東市内の飛び地を探索し、さらに本拠と考えられる西原を訪れた。後編では、宗教について検証し、さらにも1つの場所である倉ノ内を探訪する。
各地で自治体が行っている、人権・同和関係の講演会。以前から「撮影禁止・録音禁止」とアナウンスされる例が増えている。そして最近はコロナの影響でネット配信されることが多くなったが、それでも事前の申込み者に視聴者を限定し、撮影 […]
全国水平社設立 100周年ということで、本日夜8時から、神奈川県人権啓発センターチャンネルにおいて、記念講演を行います。 テーマは米国ハーバード法科大学院のJ・マーク・ラムザイヤー教授の「アイデンティティ政治の発明につい […]
古河市を探訪した時、ぜひとも隣の境町にも来て欲しいとのリクエストを頂いた。その時に聞いたのは、慈光(じこう)学園の隣が部落と伝承されていることだ。調べてみると、そこは大変興味深い立地である。坂東市に囲まれた、境町の飛び地 […]
佐倉市臼井台には、戦前4戸の部落があったという。明治の頃までは馬皮や犬皮を生産していたようである。 そして、江戸時代の資料から、それが穢多に由来するものであることが推定される。現在、その場所がどうなっているのか確認しに向 […]
千葉県では酒々井町の上本佐倉(かみもとさくら)が解放運動の中心地として有名なようである。ただ、昭和初期の戸数は27と小さな部落である。しかし、現地を地図で見ると2つの同和対策集会所と隣保館がある。 この部落に興味を持った […]
今から6年前の2016年、千葉県酒々井町(しすいまち)で、盛り土が崩れたことにより水路が閉鎖され、住宅地に浸水被害が出ていた。原因となった盛り土を行っていた業者を直撃すると、町に無許可で盛り土をしたことを認めた。しかも、 […]
昭和初期の我孫子市布佐に農業や皮革、草履製作をやっていた11戸の部落があったらしい。関東の部落と言えば白山神社が手がかりとなるが、少し調べたところで分かるのは、布佐にある竹内神社の境内に、どこからか合祀された白山神社があ […]
柏市豊住は、かつて「根木内新田(ねぎうちしんでん)」という部落だった。戸数は43。調べたところでは、その範囲はほぼ現在の豊住の行政区画と一致していると見てよい。地図、航空写真で見ると、現在ではただの住宅地になっているよう […]
On the Invention of Identity Politics: The Buraku Outcastes in Japanの日本語訳の続きを掲載する。前回はこちらを参照のこと。 今回がこの論文の最後の部分だ […]
On the Invention of Identity Politics: The Buraku Outcastes in Japanの日本語訳の続きを掲載する。前回はこちらを参照のこと。 1900年前後の部落について […]
蒲生郡日野町豊田は滋賀県の中でも有名な部落の1つである。最も環境が厳しかった一方で、環境改善事業が早い時期から行われ1991年11月に「環境改善事業完了祭」が行われ、同和対策の終結を目指すことを宣言した。 昭和初期の記録 […]
今回訪れたのは御園町。かつては薗畑という名前で、例のデータだと昭和初期には103戸の部落だった。近世は横井村と呼ばれ、明治初期の記録では156戸とあるから、明治以降から昭和初期にかけて世帯数が減った珍しい部落である。 さ […]
On the Invention of Identity Politics: The Buraku Outcastes in Japanの日本語訳の続きを掲載する。前回はこちらを参照のこと。 今回は、近代の部落研究の成果 […]
前回に引き続き、笠置町有市の探訪である。なお、町に寄付された土地の乗っ取り問題については別記事で説明した通りである。 それはさておき、次は例によって墓地を訪れた。
以前、ラムザイヤー教授による『日本の 被差別民政策と 組織犯罪:同和対策事業 終結の影響』の和訳を掲載した。今回からは、それに続く論文を和訳したものを掲載する。前の論文は日本の被差別部落民の起源が近世の被差別民であること […]
日本最少人口の町笠置町で、4年ほど前に総務省の補助金の不正受給が発覚した。2020年2月13日にこの件に関連して3人が書類送検されたが、不正受給された補助金が返還されたとして不起訴となっている。 しかし、この事件の背景を […]
笠置町は京都府内では井手町に次いで同和関係者の比率が高い自治体として知られる。その理由は、笠置町自体が全国でも最少クラスに人口が少ない町である上、有市という農村部にしては大規模な同和地区を抱えているためである。 戦前の記 […]
戦前の記録では、山川原の戸数は144、生活程度は中。あそこは部落ではないと言われるくらいに、住民は豊かだったと言われる。江戸時代は「川原村枝郷皮田」が正式な名称であり、野良田村という通称もあった。それが、明治4年の解放令 […]
「夜も煌々と電燈の光が川久保村の空一ぱいに輝き、まるで不夜城のようでした」―いにしえの滋賀県の部落を記録した書、『滋賀の部落』にはそう記されている。1931年(昭和6年)当時の戸数は25戸134人、 1996年時点で72 […]
筆者が長塚を訪れるのは初めてではなく、実は10年ほど前にも一度訪れている。その頃と何も変わっていないように見えた。その時の様子は『同和と在日②』に書いている。 昭和初期の戸数は50。生活程度は悪くなく、明治21年の調査記 […]
本サイトでも取り上げ、様々なメディアでも話題となった「破産者マップ」のことを覚えているだろうか。当初から様々な弁護士が過敏に反応し、運営者に対して法的措置を取るためにクラウドファンディングまで行われていたが、ようやく運営 […]
前回は大東市野崎を訪れたが、当然北条も訪れねばなるまい。戦前の記録では333戸とされているが、1958年の記録には200戸とある。しかし、この地は一貫して都市化していることから、戸数が減ることはあり得ない。戦後間もない頃 […]
今回は大東市にやってきた。ここには2つの部落があり、いずれも元は農村にあった。そして、その後都市化して今に至っている。 野崎は戦前の記録では138戸と既にそれなりの戸数であった。過去の航空写真では比較的家が密集しており、 […]
大阪にも、それなりの数の未指定地区がある。今回はその1つである。事前に地図等で調べてみたところでは、確かに部落が存在していたとは考えられるものの、そこに何か痕跡があることはあまり期待できなさそうであった。 かつての部落名 […]
9月に部落解放同盟全国連合会から再質問が送られてきたことをお伝えしたが、それに回答したら、今度は「公開質問状 3の1」なるものが送られてきた。3の1というのは、3番めの質問状で、とりあえず1つ目の質問に争点を絞ったものと […]