熊谷市柿沼に20戸の古村があったという。しかし、この村についてはあまり記録が見当たらない。
熊谷には同和対策の集会所があるので、柿沼にもそれがないか調べてみると、どうも柿沼集会所というのがあるらしい。
地図で柿沼集会所と書かれている場所に行ってみた。細長い土地があるので、何となくそこを通り抜けたが…
何か違和感を感じ、ストリートビューの画像をスマホで見ると、確かにここに集会所がある。しかし、今はない。老朽化で取り壊されたのであろうか?
付近で聞いてみると、去年隣の家の火事のもらい火にあってしまい、取り壊したのだという。「同和対策の集会所だったのですか?」と聞くと、「違う違う、同和なら肥塚」。
集会所は地域でお金を出し合って作ったもので、そもそも市の施設ではなかったという。土地も付近の地主から借りていたもので、以前から地主が土地の返却を求めていたから再建はないだろうということだ。そんなことを聞いてみると「そう言えば、同和と言えば柿沼にもあったな…」という話になった。
その目標となるのが斎場。葬儀場と火葬場が集まっている場所があり、その裏手に前原という村があったそうだ。斎場は大原にあるが、すぐ近くに柿沼との境界がある。
さて、そこで1つだけ手がかりになりそうな資料がある。『部落問題・水平運動資料集成 補巻一』に、世良田村事件の際に水平社が募った義捐金の名簿がある。その中に「埼玉県大里郡大幡村柿沼小林波次郎」がある。これは熊谷市になる前の地名だ。
マッポン!の分析結果がこれ。南側の大きな墓地の周辺に斎場があり、その北に小林という名字が多い。無論、小林という名字はありふれているから、よそからの移住者も多いのだろうが関連がありそうだ。ただ、前原という小字はもっと北だ。
これは1960年代の様子。今でこそ住宅地だが、かつては前原の辺りには家はなかった。ただ、南原には小さな村があり、確かに20軒くらいはあったかも知れない。
斎場の裏手の辺りは、このような状態だ。航空写真で見ると1970年代はまだ田畑が多かったが、その後に急速に開発されたようだ。もとの住民とよそからきた住民が入り混じっているだろう。
しかし、そのような中でも緑のある一角がある。古い家の表札は小林が多い気もするが、そうでない大きな家もある。
舗装されていない道路がある。これは私道なのだろう。関東の住宅地に埋もれた古村では、しばしばこのような光景を見る。
緑の茂みの反対側に回ろうとしたが、袋小路だらけだ。農村が無秩序に開発された地域ではありがちでだ。
何とか裏側に回った。やはりここだけ茂みになっていて、都会のオアシスである。そして、この茂みの中に何軒か家がある。
前原という古村について聞いてみたが、知らないという。ただ、何かを隠しているように感じられた。
ただ、登記簿を調べてみると、この茂みの土地の持ち主は確かに「小林」。小字は「南原」になる。
記事中
「何かを隠しているように感じられた。」???????
宮部氏の見解は????そしてなぜ隠すのか????
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柿沼も先週の肥塚も白山神社は無かったのかな?
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なかったようです
柿沼も、肥塚も
近くに
広大な墓地、火葬場、
沢山の斎場があるし、
ここら一帯、
全体が部落みたいな場所
だったんじゃ?
地区住民は否定するだろうけど。
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特殊珍肉あたおか委員長の奥さんも旧姓小林でしたね
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マッポン! の機能は
凄いですね〜。
要は、墓の周辺は
「小林 部落」って
事か。
全部、同じ血族だと思う。
(勝手な推測です)
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