先日、小国町の教育委員辞職を巡る、メディアが報じない背景をレポートした。当然、現地まで行って曲輪クエストせずに帰るということはあり得ない。
戦前には、小国町に14戸の部落があったとされる。そこが今どうなっているのか確認してきた。
熊本市から小国町に行くなら、朝早くがよいかも知れない。このように阿蘇カルデラに広がる朝霧を見ることができる。
もし、小国町の部落が未指定地区であったら、特定はかなり難しかっただろう。地名で言えば小国町宮原。しかし、宮原の範囲は広く、役場や道の駅も含む。
この集会所がランドマークだ。詳しくは先日の記事を御覧いただきたい。
周辺はごく普通の田舎の風景。2016年の熊本地震の震源地からは少し離れてはいるが、ここでも被害はあったようで、そのためか新しく建て直された家が多いように見える。
傾いた廃墟が放置されている。
近くに改良住宅を見つけた。
ところで、今から30年ほど前のこと、町役場が転入者に配布していた住宅地図に対して、当時の解放同盟小国支部長が「部落の家の名前が載っているのは差別だ!」と言って抗議し、以降は住宅地図の配布がされなくなるということがあったそうだ。無論、あくまで町の住宅地図であって部落を特定できるものではない。
今はあまりピンとこないかも知れないが、2005年に個人情報保護法が施行される前は、農村部でも都市部でも、転入届を出すと、役所で個人名入りの住宅地図や電話帳を渡されることはよくあることだった。そういう物を今でもお持ちであれば、弊舎にお送り頂けると大変有り難い。
ここが墓地。特定の名字が集中しているわけではないのだが、確かに墓石の名字と住宅地図の名字を照合すれば、墓の持ち主が先程の集会所の周辺であることが分かる。
そのような意味で、住宅地図が部落調査に活用できるツールではあることは間違いないが、それ自体は差別というわけでもないし、部落が特定されることが問題なら、同和集会所や改良住宅の存在の方がよほど問題だろう。少なくとも、ここでは住宅地図を手がかりに部落を特定することはかなり困難である。
先程の墓地から一山越えた裏手にやってきた、この先にも同和住宅があると聞いたからだ。
これは町営住宅の集会所。鉄筋でなく、ここまで粗末な集会所は珍しい。かなり古いものではないだろうか?
確かに長屋型式の住宅があるが、既に閉鎖されている。かなり古い形式で、これは同和事業よりももっと古い時代の一般の町営住宅ではないかと思った。
実際は、ここに集中する町営住宅のうち、いくつかが同和向けだったということのようである。空き家が多く、住民が高齢化しているように見えた。
続いて訪れたのは、以前の記事でも紹介した「人権・文化のパラソルセンター」こと小国町隣保館。
児童館を兼ねており、子供の遊び場にもなっており、あまり同和施設であるとは感じられない。
しかし、やはり人権関係の掲示物があるところは隣保館である。
隣保館は英語でセツルメントハウス。本来は貧民地区に進出して救済をする社会福祉施設のことなのだが、これがセツルメントハウスに見えるだろうか? 隣保館という言葉の意味が崩壊してしまっていないだろうか。
暇なんですねwww
実際のところどうなのかね・・・パンフに載ってそうなありきたりの意見だし
特に反論すべき内容でもないと思うが。
部落側の話はいつも通りだしどうでもいい、一般民の意見を聞いてきて欲しいよ。
以前「今時そんなこと言ってたらブチ殺されるぞ」なんて言いつつ色々と教えてくれた人は面白かったな。
web上の『春竹・本荘 被災 復興プロジェクト』で、熊本地震による春竹説教所・辛崎神社の損壊の復興活動を掲載されています。
その中で皮多部落であった事を隠すことなく、なかなか旦那寺を引き受けてもらえなかった事などの歴史を紹介されています。
自分たちの血筋や出自を隠さず、誇りを持って生きている地元の人々は素晴らしいですね。
あの『春竹・本荘 被災 復興プロジェクト』には裏があります
次回探訪記事にご期待ください
春竹といえば人権板のもっこすだが彼はなくなったかな。
ここの部落は元は皮多系だったんだろうな。。。
ちょっとチ〇コみたいになっちゃった・・・
そこです
あーやっぱりあそこか。1972年に聞いた話と同じだ。
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