戦前の記録では、山川原の戸数は144、生活程度は中。あそこは部落ではないと言われるくらいに、住民は豊かだったと言われる。江戸時代は「川原村枝郷皮田」が正式な名称であり、野良田村という通称もあった。それが、明治4年の解放令直後に山川原村と改称した。
ここまで読んで気づいたことがあるだろう。愛荘町の部落はいずれも皮田村に由来し、一方で住民の生活程度はむしろ良好だったということだ。
この若宮神社から探訪を開始した。早速氏子の名前が書かれたものがある。事前情報として、杉本、正木という太鼓店があることを知っていたが、そのうち1つが太鼓を寄付していることが分かる。
ここは武具を作るために必要な皮革を供給していた村であり、彦根藩から特別に保護されていた。皮なめしに必要な水を供給するための水路も引かれていたという。
村の皮革業者はいずれも大変な分限者であったという。そして、明治になっても皮革産業は廃れることはなく、東京にまで進出し、そこでも大成功を納めた。
村には「佐々木」という医者もおり、名医だったため一般の村からも知られていたという。
そんな具合なので、ここは部落ではないと言われるくらいに、豊かだったのが山川原なのである。
ちなみに、ここは部落の墓地である。宗派は浄土真宗本願寺派だ。
墓地の区分図がある。当たり前だが、神社の氏子の名字と一致する。様々な名字があるが、杉本、正木、佐々木はちゃんとある。長塚、川久保と共通した名字も見える。ただ、川久保に特徴的な名字である姓農はない。
「太鼓の里 山川原」という石碑がある。ここは、全国各地にある、太鼓屋が現存している部落のうちの1つなのだ。
その石碑の後ろにあるのが常行寺。江戸時代初期は浄土真宗の道場だったが、享保年間に寺号を名乗った。今もそうだが、当時から立派な寺だったという。
寺の前には学校があったことを示す記念碑が残っている。
そして、他の部落と同様住宅案内図があり、太鼓屋の場所もこれで分かる。
『滋賀の部落』によれば部落の分限者は農地を持ち、部落の人々に小作をさせた、とある。
「その枝郷としての石高を取り上げられ、本郷川原村の石高に編み込まれてしまったという差別強化」云々と書かれているが、編み込まれなかったらそれはそれで「皮田村を別のものとして扱う差別」云々と書かれるだけなので、この記述はあまり意味がないだろう。
興味深い記述としては、貧富の差が非常に大きかったということだ。明治の半ば頃、皮革業者は賤業であるものの金持ちだが、その他ほとんどの家は他人に憐れみを乞うことで糊口をしのいでいたというようなことが書いてある。
しかし、流石に今も困窮しているということはない。1996年当時の記録で131世帯のうち生活保護世帯は1世帯だけである。
村は広々としており大きな家が多く、少なくとも労働型部落ではなく農村部落である。分限者が土地を持っていたのであれば、それらの土地は農地改革で村の住民に分配されたと考えられる。ただ、山川原にも既に払い下げられていると見られるものの、いくつかニコイチ住宅がある。記録によれば改良住宅は18戸。
そして、今回探訪先として愛荘町を選んだ理由である物件が見えてきた。
これは地域総合センター、隣保館である。愛荘町の地域総合センターはいずれも立派過ぎるものだが、山川原は際立っている。
見ての通り太鼓をモチーフにしており、鼓童館という愛称が付けられている。
前の建物をリニューアルしてオープンしたのが、何と令和元年8月。令和になっても、このような農村の同和箱物施設が改築されてまで維持されるのは、税金の無駄遣いであり、利権と言われても仕方がないのではないか。
ここは同和対策の児童遊園。他に運動場、緑地、ゲートボール場、農機具保管施設、農業共同作業所があるとされる。
太鼓屋は看板を出しておらず、民家にしか見えない。しかし、どちらかと言えば豪邸である。
もとは茅葺屋根だったと思われる廃墟が1軒だけ残っていた。