高知県の高等警察課がまとめた『部落舊慣調査』は、大正13年(1924年)11月現在の数字として、長岡郡長岡村の野中を次のように書いている。
「野中部落ハ長岡村ノ西南部年越山南麓ニ位シ(中略)戸數七百八十七戸人口四千三百二十二ヲ有スル縣下第一ノ部落ニシテ」
古くは坂折と呼ばれ、明治4年に野中と改めたという。今の南国市野中である。そこをクエストしてみた。

文政7年の殖田神社の神官の届書によれば、長宗我部元親が岡豊城を構えたとき、鎮守として京都の吉田家に清水八幡宮の勧請を頼んだ。その道中の不浄を払う役として京の坂折の部落民が下ってきて、祈年山の西側に住みつき、しだいに栄えた、というのである。祈年山は今の年越山のことで、北の麓には祈年神社がある。
もっとも、地名としての野中は、今では山の部分を指している。家が並ぶのは麓の幸町・元町・東山町・廿枝などで、住所の上ではいくつもの町に分かれている。

調査によれば、当時の長岡村の屠畜場の辺りは、昔「乞食ノミナト」と呼ばれ、わずかな非人や乞食が住んでいた。京から下った坂折の者がこれを支配し、道場を作って導いた。その後、寛永年間に乞食ノミナトの村を年越山に移して一帯を開墾し、「混合部落」をつくったという。道場は後に穢多寺と呼ばれ、元禄・宝永のころに「西ノ寺」と改められた。明治7年には西ノ寺を西福寺とし、そこから分かれた東ノ寺を東光寺としている。幕末の弘化・安政年間には、毎年40人ずつを京都の本願寺へ教化の見学に出していた。

仕事は皮細工と竹細工が主で、餌取りをする者や、非人として乞食をする者、左衛門語り・人形舞わし・辻占いをする者もいて、農業を専業とする者はごく少なかったと調査は書いている。

読むかぎり、ここは単に穢多の村というだけでなく、社会からこぼれ落ちた人々を集めて世話をする役目も負っていた。関東で非人といえば車善七の配下で治安維持などが役目であったが、西日本で非人といえば乞食、犯罪者、精神病者、癩病患者などであった。起源は穢多であるが、ほかの部落とは役割が少し違っていたということである。

明治維新の前後になっても、周りの村は理髪屋や公会場への出入りを拒んだ。当時の野地村の村民が竹槍や鉄砲で部落を襲った「部落征伐」ということまであった。

差別だけで説明されがちだが、これほどのことが起きたからには、それなりの経過があったのだろう。現代でも、更生施設や精神病患者のための施設に対して周囲が反発するのと通じるものがある。「部落征伐」の首謀者は厳罰に処されたという。

明治4年10月28日には、平民籍に入ったのを受けて、乳飲み子まで国分川で御祓いをして不浄を清めた、とも記されている。

坂折山の周りをぐるりと歩いた。ゼンリンの住宅地図では、山を越えて反対側へ抜ける道があることになっていたので入ってみたが、竹林は倒れた竹と藪でふさがっていて、とても抜けられない。地元の人によれば、何年か前までは通れたが、藪を刈る人がいなくなって通れなくなったそうだ。

山の中には古い墓がある。宝永年間ごろの『土佐州郡志』には「牛祭場、在坂折山東南」とあり、丘の南東の麓に牛祭場が、部落の西のはずれには馬塚という小山もあったという。

改善の動きは地元から早くに起きている。明治38年に青年改風会がつくられ、明治43年から44年にかけて野中部落改善会となった(組織を明治43年3月とする報告と、44年1月に改めたとする調査がある)。大正2年から5年にかけては中央の里道を直し、共同浴場を2か所設け、理髪人を雇った。周りの床屋に断られるなら、自分たちでやろうということである。麻裏草履の製造は1年に6万円余りを産するまでになった。大正4年の報告には、改善会が東光寺に共同治療所を置き、医師1人と看護婦3人を雇ったともある。水平社ができるより前のことである。

戦後、野中は同和対策事業の対象になった。二戸一の改良住宅が整然と並び、道もよく整備されている。中心には南国市立中央市民館(隣保館)があり、村の中にはいくつもの集会所がある。プレハブであるが部落解放同盟の拠点もある。





この古村は、一ツ橋小学校事件とも微妙に関係がある。解放同盟が一ツ橋小学校の教員を部落民だとアウティングした事件だが、その教員の父親がここの出身だった。教員本人は父親のことをよく知らなかったのに、解放同盟の側が調べて、酒飲みだったなどと言い立てたのである。


この日は祭りで、南平神社の幟が立っていた。氏子は神社ごとに分かれていて、神輿の新調には3000万円かかったと地元の人が話していた。


丘の上に登ると、南の方に改良住宅の屋根がびっしりと並んで見えた。「縣下第一ノ部落」と書かれた村は、今も大きな村である。





南国市 : ×なんごく-し 〇なんこく-し