京都市の同和地区の呼称は雅なものが多いように思えるが、この楽只地区のようにその呼称自体の歴史は浅いものが多い。楽只は『詩経』の「楽只君子」由来とする楽只小学校の校名が由来で、従ってそれは学区を示すものであり、楽只学区全域が同和地区ということではない。
昭和初期は350戸程度あり、様々な仕事を行う都市部落であった。近世は六条村枝郷の役人村で、牢屋敷外番役・行刑役・禁裏御庭掃除などの公役に勤仕していたとされる。

菊池山哉は「愛宕郡、北山口」としてこの部落を記している。
俗に蓮台野とも、野口とも言ふ。鷹野から若狭国小浜へ抜ける街道口である。人跡稀な街道で、六道口には入らない。京の方が野で、鷹野の方が山間であるから、野口と言ふのは、鷹野の称した名前であり、北山口とは、京の人の言ふ称へである。
蓮台野とは、昔時火葬(又は葬送)の地であり、死人蓮台の続くところからの名で、古くは紫野と云。紫式部の名の負うところ、近く紫野の大徳寺で、有名である。
○この蓮台寺曲輪が古いものでなく、近世のものである事は、左の文書に依って知られる。
一、私共北山辺に罷在候、畠番之者共に御座候。然る処に、私共渡世の為、町方へ罷出、雪駄直し仕候へ共、皮田役の年寄無御座候義に付、町稼ぎ難儀致し候故、蓮台野村年寄方に頼申候へば、則蓮台野村より被申候様は、当村は六條村の枝郷にも有之候間、頭村の六條村へ、御頼申様と被申候故、蓮台野村と相談の上にて、此度其許様を、頼度候間、六條村の手下と被成、御支配被成、可被下候。
然る上は、御公儀様より被為抑出候御法度の御趣、堅相守り可申候。為後日頼申書付如斯御座候。已上
宝永七年寅八月 紙屋川組
三郎兵衛
外14名連署(註一)
この15名の野守は、何處に居ったか、紙屋川と言ふのは、この蓮台野の下を金閣寺の方へ流るる川である。即ち蓮台野は六條村の分かれで、古くない事が分かる。京にも、野守りはあったらしい。大原口の田中村も、先づ野守りであらう。
○この蓮台野は、餘部村の人々が、禁裏御用を享保9年に召し上げられた後、禁裏の御用(御庭掃除)を勤めたと云。年寄りを野口與治兵衛と云。他に曲輪もあるのに、重い御用が、此処へ移ったのは、ここが餘部村の枝郷であった関係であらう。
○北山路入口に、冷泉院の御火葬場がある。この曲輪は区画整理されたが如く、小路を挟んで、町家整然として居る。日稼ぎ許りで、農家はない。町名が4つに分かれて居るから、寄合曲輪であらうか。(註一、民族と歴史、二ノ一)

早くから融和事業が行われ、1921年には託児所設立、1925年に隣保館が設置された。1951年のオールロマンス事件を契機に京都市の同和事業が本格化し、多くの改良住宅などの施設が出来たが、今は多くが取り壊されて閑散としている。

楽只児童公園に、ここが部落であると分かるようなものがある。ここが水平社創立の場所の1つと言えるのは、全国水平社の本部事務所兼初代委員長の自宅があったからである。
なお、南梅吉はここの生まれではなく、現在の近江八幡市若宮町の出身である。1894年に野口村へ移住、楽只青年団長として地域に根を下ろし、全国水平社初代中央執行委員長となった
南梅吉は後にスパイを疑われたことなどで失脚、そして若宮町は戦後の同和事業を辞退している。そういったことまでは記念碑には書かれていない。

水平社の初代事務所の跡地には1975年に隣保館が移転していたが、つい最近更地となった。



寺は正覚寺で、真宗大谷派である。1924年に真宗大谷派が水平社に部落寺院を報告した『大谷派地方関係寺院及檀徒に関する調査』に掲載されており、鷹野北町237戸・1,236人と記載がある。


1923年に支部である千本水平社が設立された。「千本」はこの地区の別称であるが、こちらは中世から記録に残る、この辺りの呼称であって、これもまた部落そのものの呼称というわけではない。楽只が学区名、千本が周辺も含む地理的呼称、鷹野が戦前の融和地区の部落名という関係になるだろう。
蓮台野 → 野口前/蓮台野村 → 野口村 → 鷹野町 → 楽只学区と名前が変遷している。

この楽只館は隣保館の別館を京都市立北総合支援学校の施設に転用したものである。ここも建物が老朽化しているので、近いうちに取り壊されそうである。

比較的新しいのが「らくし21」(楽只市営住宅第21棟)。2002年1月に建設された市営住宅である。



隣保館等があった場所からは道路を隔てており、地下通路から行ける。


隣に、楽只診療所がある。ここは現在も運営されている。

その隣には公営浴場があったが、ここも最近取り壊された。

南側にあるのが「後冷泉天皇火葬塚」。つまりこれは墓というわけではなくて、後冷泉天皇が火葬された場所である。菊池山哉の記録からすると、天皇を火葬する役目も負っていたのであろうか?

その近くには1995年に作られた「千本あそびマップ」がある。劣化してきてはいるが、1995年の地区の様子が分かる、貴重な地図である。


旧隣保館が取り壊されてしまったあとは、隣保館的な施設は、この楽只小学校跡に置かれている。「ツラッティ千本」に昔の部落の様子など、貴重な物が展示されているのだが、残念ながら訪れた時は早朝のためにまだ開いていなかった。



