『三重県部落資料集前近代篇』に掲載された「管内◯◯部落と其人口」よれば、昭和初期に旧長野村には2つの古村があった。そのうち1つは前回訪れた東山だ。もう1つは若狭で、東山と合わせて74戸と記録される。
同書の「壬申戸籍調査集計表」では明治初期に桂畑村に13戸の古村があるとされるが、これは若狭のことであろう。

筆者が北長野に降り立ったとき、東山はすぐに分かった。東山という地名については現地でも特にタブーとされている様子はない。しかし若狭という地名は地図でも現地でも見当たらない。
長野小学校跡地付近からクエストを開始したのだが、写真の通り「細野地区」と書かれた物件がある。

そこから少し斜面を下ったところに、旧伊賀街道沿いの家並みがある。最初はこの辺りが若狭なのかなと思ったが、違うような気がする。

思った通り、ここは宿場町である。すると、古村はその端っこか裏手にあるはずだ。


付近の住民に「若狭はどこですか」と聞いてみたが、知らないという。ただ、牛や馬の売買をしている集落があったとの伝承があるという。長野小学校跡地にある「ふるさと資料館に行ってみればいいのでは」と言われたが、どうも口ぶりから何かを隠しているように感じた。

旧宿場町の端を歩いていると「長野教育集会所」の標識を見つけた。


これがその教育集会所。車が停まっているが、中に人がいる様子がない。


中を見ると、人権を強調する掲示物が。


子供の字で書かれた、「長野教育集会所の役わり」「人権を大切にしてそれをじゃまする差別をなくすための場所」「地区学習会」という記述が見える。


私流に申せば、このような教育は洗脳、プロパガンダ教育であると思うのだが、津市の山間部ではまだ続いていた。早く洗脳から解かれるべきである。


ということは、やはり教育集会所周辺の旧宿場町の端が古村かと思ったのだが、さらに調査を進めると、「この橋を渡ったところにある信号のもっと先が若狭。100戸くらいかな。でも、今は若狭とは言っていなくて、北長野の自治会はみんな一緒」との証言を得た。

地図には若狭の地名はないと書いてしまったが、マッポン!の小字表示機能では南東に「下若狭」の小字がある。この「下」が川の下流の意味だとすると、上流側の盆地にある集落が若狭であると考えて差し支えなさそうだ。



橋を渡った先には坂道と空き家と作業場のような建物があった。ここからさらに奥へと進んだ。



言われた場所に行くと、峠道のような場所に地蔵と石碑と山間部ではあまり見かけないような団地が現れた。これは間違いなく改良された地区であろう。


さらに峠を越えると、開けた場所が現れた。山に囲まれた地形であり、起伏がある点では東山と共通する点もあるが、こちらははるかに大きくて戸数も多い。

トイレに行こうと思ったら、ちょうどよいところに「中野文化会館」という施設を見つけた。

平成16年に建てられた比較的新しく立派な建物だ。これはもしかすると同和施設ではないだろうか?

やはり、中には人権や差別の掲示物がある。過去の電話帳を調べてみると「津市役所隣保館中野文化会館」として登録されているので、施設の位置づけは隣保館なのであろう。


部落解放同盟三重県連合会の「県連だより」も置かれていた。

職員に呼び止められ、名前と施設の利用目的を聞かれた。特に深い意味はなく、施設の利用状況を集計して市役所に報告しないといけないからだという。ここは素直に、示現舎の宮部です、古村のクエストに来ましたと答えておいた。

公共の集会施設はもう1つあって、こちらは旧美里村中野集会所。

古村のどん詰まりには祠がある。



古村が、山に囲まれた窪地にあることが分かる。


古村の中は起伏があるが、意外に家が多く、あまり寂れた様子もない。文献のデータによれば戸数は70から80戸と推定されるが、証言が得られた通り、それよりも若干増えたということだ。


前回の東山のクエストで、長野小学校跡地周辺が古村だと思っていたとのコメントを頂いた。筆者も現地を訪れて初めて分かったのだが、東山の小さな窪地と、現在は「中野」と呼ばれる大きな窪地にある集落が旧長野村の古村である。
こんな山深い場所にこんな団地があるとは・・・
あまりにも異質で驚きました。
取材当日の天気のせいもあってか非常に陰鬱な雰囲気がありますね。
子供達の作品はほぼ部落関係者しか見ることはないんでしょうね。もっとオープンにしたらいいのに。
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