沼津市の旧戸田村に部落がある。菊池山哉は昭和初期に次の通り記している。
○土肥から三戸への海岸街道筋に存する。山間僻地なので、昔時この道路の重要なりし時代を考へるより外に、存置の理由が見当らない。今は樵夫の通る様な道である。
『長吏と特殊部落』
○鎮守は稲荷神。
○民家僅に五戸、農である。
○戸田の大字に井田があり、上古の井田郷である。式内部田神社がある。つまり井田郷の関屋であったのであらう。蒸気船が走る様になって街道は全く不用となった。
東伊豆には熱海や伊東のような温泉地があるが、西伊豆にも魅力ある観光地が多い。例えば沼津には伊豆の七不思議の1つである、海に囲まれた淡水湖、大瀬崎神池があるが、そのような観光地には一切立ち寄らない。筆者が目指すのは部落だけである。
菊池山哉が記した部田神社は旧戸田村全体の氏神なので、部落の神社ではない。手がかりとなるのは稲荷神社である。グーグルマップに掲載されているいくつかの稲荷神社を訪れてみた。
例えばこれが、重要文化財松城家住宅近くにある稲荷神社だが、解体されてしまっていた。近所の人に聞いてみると、近くにもう1つ稲荷神社があるという。
さきほどの稲荷神社も急斜面にあったが、こちらも凄い場所にある。
斜面を登ってたどり着いたが、荒れ果てていた。
住民によれば、この辺りは集落ごとに稲荷神社があり、いずれも古くからあるものだが、今では住民が入れ替わり、古くからの住民は高齢化したことで、世話する人がいなくなってしまっているのだという。
いずれにしても、これらの稲荷神社は部落とは無関係と判断した。氏子の名字の傾向が他の部落と異なり、近くにある古い墓地は日蓮宗ではなく、おそらく浄土真宗のものだからだ。
部落の場所の答えは全国部落調査にある。『長吏と特殊部落』では伏せ字にされている「沢海」という小字名が書かれている。沢海は戸田漁港の北隣にある小さな入江で、文字通り沢が海に流れ込んでいるような地形だ。
海側は港というよりは、船の整備や修理を行う工場になっている。主業は「工業、舟乗」とあり、工業というのは船に関するものだろう。
この、やや隔絶感のある場所が部落であった。住民によれば、特に皮革等の仕事はしておらず、他の村と同じような仕事をしていたという。つまり、農業、船に関する仕事等である。このことは記録に合致する。
そして、伊豆の他の部落でも見られた「野田」という名字がここにもある。
その家が稲荷神社の氏子だったということなのである。稲荷神社はもう解体されてしまったというが、跡地を教えてもらった。
写真の道路の脇の、草むらになっている空き地が稲荷神社の跡地。稲荷神社が解体されたのはそれほど昔ではなく、10年ほど前にはまだあったという。一歩遅かった。
稲荷神社がなくなった理由は、やはり住民の入れ替わりと古くからの住民の高齢化である。稲荷神社の写真を残すことが出来なかったことは残念であるが、かろうじて口碑を残すことが出来た。
いつも楽しく閲覧しております。
宮部さんの部落探訪というディープな記事はその性質上する人がほぼいないので面白く感じられます。
関係ないですが自分は上川多実の娘と結構似てますね笑
祖父母が部落出身(東日本)で私の親も私も東京の下町で生まれて…似てます
違うのは鼻ほじりと部落に対する姿勢みたいなもんですかね笑
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伊豆の野田さんはお金持ちや町の世話役とか多いです。
土肥の方だと思ったら戸田の分かれなのかな?。
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野田姓で皇族や議員につながる人もいましたね。
『伊豆水軍物語』によると。
江梨の鈴木氏、岩科の佐藤氏、西伊豆町の山本氏・椿氏、戸田村の塩崎氏・野田氏・高田氏、伊東市の浜野氏など、熊野から渡航してきて伊豆に住みついた海賊衆はたくさん居たとのこと。
私が直接聞いたことがあるのは、河津あたりの榎本氏も熊野から流れ着いたという伝承がありました。
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「観光地には一切立ち寄らず目指すは部落だけ」部落ファンとしては素晴らしい言葉です。私は下調べは出来ないので有名部落を見に行ったり、知らずに町の中心から少し外れた所を通ったら、いきなり水平社宣言の石碑や狭山裁判の看板が出てきて、衝撃を受けるときがあります。また時折、有名部落の探索もお願いします。
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最近は関東の未指定地区ばかりで申し訳ございません
今度はまた信州方面に行こうかと思います