菊池山哉の『長吏と特殊部落』には、こうある。
入間郡、高萩村、北村、□□
○高萩村と言ふよりは女影村に近い。多くの村が、鎌倉を受け南であるのに.この曲輪のみは、北村であり。俗に北口とも称へて居る。
○白山神。
○六十余戸の大村であるが、何れも富裕の農家ばかり、下駄表を作らなければ、一見して分らない。「太平記」女影ケ原の戦闘を伝へて居る。中世原とすれば、古い山番であらうか。北口では長吏とも思へない。又村界移動も伝へがない。
昭和初期の記録では戸数75、生活程度は中とある。
現地には白山神社があり、疫病退散祈願がされていた。
横の小さな祠には「女影溝中」と彫られていた。
過去の記録通り、この部落は富農が多かった。『全国部落調査』には主業は履物表とある。
菊池山哉が訪れた時期は正確には分からないが、農地解放の後だった可能性もある。
いずれにしても、現地で家を見ると、いかにも古くからの富農の家が多く、表札は「小林」が多い。
記録にある通り、豊かであったため、同和事業は行われなかった可能性が高い。
これは北口公会堂。菊池山哉の記録では北口は俗称とあるが、普通に自治会館の名称として使われている。もちろん、これは同和施設ではない。
公会堂の敷地内に八雲神社があり、これも部落の神社のようである。
公会堂とは別に「ふれあい舘」という施設もある。これは児童館的な施設のようだ。
これも行政施設ではなく自治会の所有であろう。
その近くに薬師共同墓地がある。
これが部落の墓地かと思ったが、現地に来て一目で違うと分かった。墓石の名字の傾向が明らかに違う。
詳しそうな人に聞いてみると、墓地はずっと北の方にあるそうだ。宗派は曹洞宗だという。
踏切を越えてずっと北に進むと、そこも小林の表札が多く、北口自治会の看板が出ている。
改めて地図に目を落とすと、ここは女影と高萩の境界が入り組んでいる。「女影新田」という小字もある。女影と高萩の境界上に部落があるように見える。
墓地を新興住宅地が見えてきた。
墓石の名字と表札の名字の傾向が一致するので、これが部落の墓地であることは間違いない。
寄附者の名字も小林。
塔婆に「大施食会」とある。こう書かれていれば、間違いなく曹洞宗である。
狭山市の部落は時宗だったので、旧入間郡でも部落の宗派は一定ではないということだ。これは埼玉県の部落の特徴である。別の特徴があるとすれば、南妙法蓮華経が彫られた創価学会と思しき墓がいくつか混じっていることだ。
おそらく関西では珍しい、比較的大規模な未指定地区だ。しかし、さらに研究を進めると、旧入間郡ではこの規模の未指定地区はありふれているようなのである。
>菊池山哉の記録では北口は俗称とあるが、普通に自治会館の名称として使われている。
地名では存在しないが、自治会名に使われているからこそ俗称なのです。
ここの部落として重要な点は、鎌倉街道沿いである事。それを踏まえて見てこなければ… 面白いのは、線路を挟んで別所地名が残っていますね。なお八雲神社は祇園信仰です。
小字として存在していた(現在はない)と思われるので、完全な俗称ではないのでは。
境橋は高萩村との境、そして女影村の北口、という意味だと思っていたので、資料にあるという「多くの村は鎌倉を受けて南、ここだけ北村」ということの意味がちょっと良く分からなかったのですが、お心当たりあれば教えて下さい。
ご苦労さまです。
早く慣れたいです。
女影村は1889(明治22)年に高萩村その他と合併して高萩村になっています。山哉が周った頃は、高萩村になっていたと言う事ですね。
1:20 こうちゅう→こうじゅう(講中)
10:37 曹洞宗ちざんは→真言宗ちさんは(智山派)
ではないでしょうか
最寄りの武蔵高萩駅は、出口が北口・南口ではなく、さくら口(南口)・あさひ口(北口)になっています。小字の北口と紛らわしいからそうしたらしいのですが、余計紛らわしい気がします。
東京から移住する為に、女影ではありませんが近くに家を購入しました。
こういう事は一切考えていませんでした。
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