『各墓地で憤りをあらわに「死んでも差別が」熊本県知事が部落視察』という記事が、2004年11月15日のウェブ版解放新聞に掲載されている。当時の潮谷義子熊本県知事が「部落の人びとは死んでまでも差別をうけるのか」と憤りをあらわにしたという。
記事には地名が書かれており「菊池郡菊陽町原水馬場の墓地」とある。該当する部落は『全国部落調査』にはないようだが、死んだ後も差別される部落とはどのような部落なのだろうか? 実際に訪れてみた。
この日に小国町に行かなければならなかったため、朝早くからの探訪となった。
これが、その墓地であろう。解放新聞の記事によれば、一般地区の墓地が1メートル50センチの垣根で覆われている一方、部落の墓地は見下ろすようになっているという。
見ての通り立ち入りを厳禁するということなので、敷地外から見るだけに留めておいたが、墓地の中心と手前に整然と墓石が並んでおり、中心部分は生け垣で囲まれている。そして手前の墓石の並びは、墓石がやや小さく、少しだけ低くなっているように見える。
ここは曲輪クエストの基本ということで、墓石の名字の傾向を記憶しておいた。
墓地の近くを歩くと、確かに同和住宅らしきものがある。
ここでも自動車が放置されているのが見られた。
決定的なランドマークである教育集会所を発見した。「人権の街づくり菊陽」とある。これは同和対策目的のもので間違いないだろう。つまり、指定同和地区ということだ。周辺に隣保館がないことから、部落の戸数は30から50の間であろうことが推定できる。
スマホの住宅地図で、周辺の名字を確認した。
この部落には新しい家が多い。移住者の家や集合住宅もあるが、多くは先程の墓地の墓石に刻まれた名字と一致する。菊陽町は2016年の熊本地震で大きな被害を受けたことから、改築された家が多いのだろう。同和住宅や教育集会所がなければ、部落とは分からない。
よく見ると、古い家はことごとく空き家で、人が住んでいる家は公営住宅以外はほぼ改築されている。
そして現地を探訪して判明したのは、小さい方の墓石の名字が教育集会所周辺に分布しており、墓地の中心の墓石の名字は上井手川を挟んだ向こう側に分布しているということだ。川が部落と一般地区の境界になっているのだろう。
改めて墓地を見ると、確かに一般地区の方が墓石が大きく、見下ろすようになっているように見えなくもない。解放新聞に書かれた通り、これが死んでも差別されるということなのか、聞いてみようと思ったがあまりにも早朝で人通りもなく、聞く機会がなかったのが残念である。
(菊陽町立隣保館設置条例) 菊陽町東部町民センター : 菊陽町久保田1,309番地2
(菊陽町大型共同作業場の設置及び管理に関する条例)
同和地区における地区住民の生活の安定及び福祉増進を図り、もって地域の産業発展に寄与するため、次のとおり作業場を設置する。
(1) 菊陽町大型共同作業場(自動車整備工場) 熊本県菊池郡菊陽町大字津久礼72番地 ※現在は(有)西日本自動車工場か。
(2) 菊陽町大型共同作業場(IC部品組立工場) 熊本県菊池郡菊陽町大字久保田字中岡827番地・828番地4・831番地 ※現在は(株)菊陽電装か?
>該当する部落は『全国部落調査』にはないようだが
今昔マップを見てみると、1900~1901年・1926年の地図では、そこは林で集落が存在していませんね。1945年以降のもので集落が出てきます。
名前を見てみると、合志市合生・大津町杉永・菊陽町久保田に所在する部落の苗字で構成されています。
何らかの理由で新たに造られた集落なのかと。墓は移住の際に各所から持ってきたのでは?
現在も昔のままの状態で維持されているということであれば、ただの偶然という結論だったということか。すこし前の動画であった地区の呼び方の上・下(かみ・しも)について難癖をつけるのと同類なのかな。
私の田舎の感覚からすると一般人と部落民が同じ墓地というだけでもそんなに強い差別はなかったのかなぁと思ってしまうが。
場所によっては確かに高低差がありますね。左上が一般地区の墓で、部落の墓は2mぐらいは下に位置している様です。但し、これが差別をあらわすものなのか?造られた順番により立地がそうなっただけなのか?