読者の方から『埼玉県東部の被差別部落のこと 山中の昔といま くらし・語り』という本があると教えていただいた。早速手に入れて読んでみると、白岡市上野田の飛び地の部落のことが書かれていた。ここは融和事業の対象となっていなかったようで、筆者の把握していなかった部落だった。しかし、ある時解放同盟の支部が組織され、詳細な記録が残されていたのである。
「彦兵衛の森」という公園があったのでここから探訪を開始する。現地は地名で言えば白岡市彦兵衛にドーナツのように囲まれている。もとは彦兵衛新田と言ったそうだ。彦兵衛さんが開発したのだろう。
江戸時代初期には穢多4軒と記録され、幕末には10軒程度になっていたそうだ。そして。1971年に「補助を受けられる」として解放同盟支部が結成された時は8軒だった。
ストリートビューで見えたこの小屋の中に何か歴史的な物でもないかと思ったら。本当にただの物置だった。
現地は田んぼに囲まれている。本には「M姓」の家が長吏の子孫である旨が書かれているが、現地に行くとそれが宮内姓であろうことが分かる。
部落の由来については、落人、非人、皮革業と様々な伝承があるが、弾左衛門配下の長吏小頭であったということが信憑性が高い。
しかし、そのような由緒ある部落とは、あの本がなければ分からない。
現地は豪邸がいくつかある。その先へ進むと…
集会所を見つけた。これは上野田山中集会所。白岡市の条例では同和教育のための施設となっているので、教育集会所ということになるのだろう。
その近くにある庚申塔。どこかで見たような気がしたと思ったら、本に写真が出ていた。
集会所の敷地内にある2つの祠、これも本で見たものだ。
左が天神様、つまりは菅原道真公。右が稲荷神だ。
祠にも宮内姓の名前が刻まれている。
大変詳しい方から話を聞くことが出来た。集会所の場所がまさに「西の家」があった場所で、周辺の畑、そして現在は自動車のスクラップが置かれているこの場所も敷地内だったという。しかし、「西の家」の人々は昭和初期に部落から出ていってしまった。
「西の家」 の先祖は享保年間に現在の埼玉県北本市辺りからこちらに移ったと伝えられ、現在部落に残る分家は、本家の代を含めると10代続いているという。
ちなみに、このスクラップ工場の経営者も宮内姓。これは、どちらかと言えばかなり豊かな部落ではないだろうか。
白山神社もあったのだが、「西の家」が部落を出ていく時に移転され、その後に社殿が火事で焼けてしまった。残念ながら現在は跡形もなくなっており、御神体だけは個人の持ち物となっているそうだ。 「西の家」 も火事で没落した経緯があり、昭和初期までに様々な家財道具が売り払うなどされ、歴史的に貴重な遺物が失われてしまった。
本には普門品供養塔の写真が載っており、これがどこにあるか住民に聞いてみたが、残念ながら分からなかった。
こちらは大徳寺。曹洞宗のお寺である。元は真言宗の寺で1512年に改宗したという。部落はここの檀徒であり、「西の家」の墓石があるというので来てみた。
なぜか日蓮宗の墓石もある。
本の写真とは位置が変わっているようだが、これが「西の家」の先祖の墓石で間違いないだろう。
寺には白山堂があるが、白山神社との関係は不明である。
いずれにしても、この部落に弾左衛門配下の小頭が住み、周囲の治安維持に当たっていたことは間違いないだろう。享保年間まで由緒を辿れる家というのは珍しいと思うので、むしろ由緒正しい部落である。地理的にも悪い場所ではなく、融和事業の対象として名前が挙がらなかったのはそれなりの理由があったのだろう。
神道の研究者です。一般的な神社においても、その記録となるとせいぜい江戸時代後期までしか遡れませんので、この部落はまさしく「由緒ある部落」です。そしてループさんが指摘されるように、もともと社会的にも経済的にも自立していたのでしょう。1971年になって「補助を受けられる」部落として、解放同盟の支部が結成されたというのは違和感を覚えます。本件は貧しい部落ばかりでなく豊かな部落もあったという事例として貴重かと思われます。これからも部落の多様性を探るループさんの学術研究を応援します。
ありがとうございます。今後も歴史ある部落を巡っていきます。
「未解放部落が歴史的に存在しない三郷市に、突如として「部落解放同盟三郷支部」なる団体が結成されたのは七五年四月のこと。彼らは市当局と、当時の県同対課に圧力をかけ、市内三地区に「同和地区」をデッチあげるとともに「解同」支部への活動費補助金支給、支部員の固定資産税の七割減免、同和事業計画の策定と同和予算の計上、市職員への研修の強要など」をおこなった、と1980年の『議会と自治体』にあります。「三郷市内に住民票もない、暴力団とつながる人物たちが、「解同」の無法をみて、全日本同和会三郷支部なる組織をデッチあげ、三千五百万円もの要求をつきつけたのはその直後のことである」とも同誌に報じられています。
未解放部落が歴史的に存在しない草加市や越谷市でも解放同盟は「でっちあげ同和地区」を作っていますから、1970年代に何らかの策動があったのでしょう。
https://www.city.yashio.lg.jp/smph/shisei/shiminsankaku/johokokai/kosaihi/h22_kosaihi/kyoikucho.html
今では削除済みですが、上記ウェブサイトには八潮市の教育長交際費(平成22年度)の12月1日執行分として 「西澤秀夫(部落開放同盟埼葛郡市協議会副議長兼三郷支部長)御令室様 香典」の氏名の記載がありました。ということは、少なくとも2010年12月までは「解放同盟三郷支部」があったと考えられます。
それは興味深い話です。エセ同和地区の具体的な場所は分かりますか?
集会所等のエセ同和施設があれば訪れて確認してみたいです。
具体的な場所の一つは恐らく茂田井です。なぜなら西澤秀夫さんの住所が三郷市茂田井だからです。
しかし明治時代の地図で確認すると西澤さん宅の近くに民家はありません。ですから、そこが旧賤民の集住地区だったとは考えられません。
1996年の『埼玉年鑑』411ページには皮革製品製造販売を生業とする「三郷毛皮企業(協)」の名前と所在地と電話番号が記載されています。そこの理事長が西澤秀夫さんで、所在地は茂田井の西澤さん宅と同じ番地です。
1994年の『埼玉年鑑』349ページには「協和毛皮」という会社の名前と所在地と電話番号が記載されており、社長は西澤良夫さんです。所在地は西澤秀夫さん宅と同じ番地です。ひょっとしたら草加市吉町と同様、墨田区や荒川区から移転した皮革業者と関係があるのかもしれません。
2017年に日本共産党へ問い合わせた時の返事はこうでした。
・当時の状況を知る三郷市議に問い合わせたところ、部落解放同盟の三郷支部なる組織は現在確認されていない
・ただ、団体名が明確ではないが、越谷支部を名乗る組織に今も補助金をだしている
・固定資産税等の優遇措置は今も制度としては残っているようだが申請はない
・埼玉人権連に問い合わせたが、部落解放同盟の三郷支部については全く承知していないとのことだった
解放同盟三郷支部の設置の前年、1974年に「三郷市人権教育推進協議会」が設置されており、「三郷市の同和教育をはじめとする人権教育を推進する」と標榜しています。
https://www1.g-reiki.net/misato/reiki_honbun/z600RG00000225.html
今年3月に改定された「三郷市人権施策推進指針」にも「同和問題をはじめ」という文言が5回登場しており、もともと旧賤民の集住地区がなかった自治体にしては異常に「同和」に力を入れていることがうかがえます。
http://www.city.misato.lg.jp/secure/18121/%E4%B8%89%E9%83%B7%E5%B8%82%E4%BA%BA%E6%A8%A9%E6%96%BD%E7%AD%96%E6%8E%A8%E9%80%B2%E6%8C%87%E9%87%9D%E3%80%90%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E3%80%91%EF%BC%88R3.3.19%EF%BC%89.pdf
茂田井774ですね。東京の墨田で皮革業者が三郷市や草加市に移転していったと聞いたのでその話と符合します。
越谷支部にはなぜか吉川市長から交際費が出ています。
https://www.city.yoshikawa.saitama.jp/index.cfm/32,56094,c,html/56094/20210118-094338.pdf
「三郷市同和行政の基本方針」という文書に何か書かれているかも知れません。
三郷市近辺に行く機会があれば調べてみます。
金もらえるから解放同盟支部をつくっただけであり。
ここは別段「差別されていた地域」ではないということ。
もきちんと調べればこうやってわかると。
こういうことをコツコツ公けにしていくことに価値がありますね。
そうですね。補助が受けられるからと素直に書かれているのに驚きました。
>>その中でも「西の家」と言われた家が長吏頭で、
>>弾左衛門配下の長吏頭であったということが信憑性が高い。
長吏頭は弾左衛門の事であり、西の家・弥兵衛も中の家・瀬兵衛もその配下で
ある「長吏小頭」です。
>>左が水神様、つまりは菅原道真公。
菅公は「天神様」です。
すみません、恥ずかしい間違いでした。訂正しておきました。
>>「西の家」 の子孫は ( 中略 ) 北本市辺りからこちらに移ったと伝えられ、
子孫じゃなくて先祖ですね。なお >>弾左衛門配下の長吏頭 の方だけ
訂正モレになってますねw
度々ご指摘ありがとうございます
「埼玉県部落解放研究会」で検索してみると場所がズバリここです。
御成街道を7キロ北上すると上高野(幸手)の「西組」、
2キロ南下すると「鹿室」という部落があります。
鹿室は「新編武蔵風土記稿」にも記載がある有名なムラです。
集会所と白山神社がある以外はありふれた近郊農村という感じ。
確かにありますね。彦兵衛108-9
住宅地図だと長谷川さんになってます。
表題記事のコメント欄をご照覧されたし。
埼玉県部落解放研究会
2021年3月24日 12:21 PM
白岡市彦兵衛108-9 ※上野田の隣接地
ありがとうございます。Youtubeでも指摘がありました。
母は傘寿超えの戦前生まれで、この部落の近くの小中学校卒です。
同級生にこの地区出身の者が二人いて、それぞれ動画で語られてた苗字でした。
一人は家業がくず鉄回収で、
貧乏で家の手伝いが忙しかったせいかあまり学校にも来れず、
九九もロクにできなかったそうです。
貧乏で頭が悪いとなるといじめの対象になりそうですが、
むしろ逆で暴れん坊というかワルだったそうです。
ワルになったのは、たまにしか学校に来なかったので、
それでいじめられた反動じゃないかと母は言ってました。
もう一人の家業は汲み取り業で、
貧乏ではあったものの本人が温厚な性格なので普通に交友していて、
数年前まであった同窓会にも参加していたそうです。
この地区が部落だという認識は子供心にもあったそうですが、
そこに住む人への差別意識はなく、普通に接していたと言ってました。
ただし、一つ驚いたことは母はずっとここを朝鮮部落だと思っていたそうです。
もしかしたら古い地元民の間では今でもそのような認識かもしれません。
ありがとうございます。朝鮮部落と思っていたというのが意外でした。地元で言われることというのは、その程度なのかもですね。
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