古河市の「神明地」というところに31戸の部落があったという記録がある。現在の地図を調べると、古河市小堤に神明町という地名が見つかる。今、そこはどうなっているのだろうか。手がかりを探しに現地に行ってみた。
「地」が「町」に変わったのだから、文字通り町になっているのかと思ったが、現地は今でも農村だった。畑の間に家が点在している。
家がまばらだと、風よけの生け垣で囲まれた家が多いのかというと、全く見られない。
農家に混じって、土建業者がある。
その横に鳥居を見つけた。グーグルマップでもゼンリンでも神社はなかったはずだが?
これは紛れもなく神社である。比較的最近まで大きな木があった形跡があることから、最近できたとか、どこかから移転してきたものでもなさそうだ。
神社の名前はどこにも書かれていない。
いこの石碑には昭和42年と書かれている。
傍らにある馬頭観音は明治27年のもの。
祠の中を見たところでは、この地域で民家の敷地に見られる稲荷神ではなさそう。ということは、これは白山神社ではないだろうか?
たまたま近くの人に聞いてみたが、ここ周辺数件で祀っているもので、由来はよく分からないという。神社の名前は特にないらしい。
しかし、神社の横の山が気になる。これは残土あるいは、産廃の山に覆土したものでは?
近くにある猿田彦大神は方位除けのもので、神社とは関係ない。古河市ではあちこちで普通に見られるものだ。
神社から少し離れた場所に行ってみた。ここも神明町の範囲内である。
家を数えてみると、今でも30軒前後のようだ。
ただ、住民によれば、これでも結構人が入れ替わっているらしい。神社のことも聞いてみたが、あれは周囲の何軒かが祀っているらしいということは知っているが、それ以上のことは知らないとのこと。
全国部落調査に記録された世帯数は神明町全体のものである一方で、実は部落と言えるのは神社周辺だけという可能性はないだろうか?
謎が謎を呼ぶ探訪であった。
著者の本田豊氏はいろいろ言われる事が多い様ですが、なかなか面白そう。。。
第一章 茨城県の部落の現状とその特徴
石田三成と部落/茨城県の部落数と人口/多くは消えてしまった非人部落/利根川と部落/長吏とは誰か/かはた呼称は部落とは無関係/洪水と竹林の関係/サンカと言われた人々/非人として扱われた江戸時代のサンカ/豪華な墓石もある部落の墓地/部落には大地主もいた
第二章 茨城県の解放運動
水平社の拠点は旧総和町/茨城県下の解放運動の困難性/茨城県解放運動は古河から開始された/五霞町では融和事業が行われた/解放運動を活性化させた高松差別裁判
第三章 近代文学と被差別者
根深い間引きの習慣/シャボン玉は間引きの唄/犬はさかんに食べられていた/猫も食べられていた/冠婚葬祭には乞食もきた/非人の仕事は役所がやるようになった/部落は古墳の警備はしていない/後に尾を引く洪水の被害/「下人」に対する差別
第四章 白山神社は語る
東日本の部落には白山神社がある/白山神社は弾左衛門の支配地域に建てられた/水の神である白山神社/白山神社の建物は大小様々/白山神社は弾左衛門支配の確立記念に建てられた
第五章 部落はなぜつくられたか……………………143
部落がつくられたのは理由がある/落ち武者伝承/県下各地の具体像/境町/五霞町/旧真壁町/結城市/旧総和町
>>近くにある猿田彦大神は方位除けのもので、
厳密に言うと「方位除け」は、五行における生まれ年により決まる〇星が今年は
鬼門にあるから云々と人について回るもの。敷地に置かれているものは、表鬼門
(北東)を塞ぐ「鬼門除け」ですね。猿田彦なのは、庚申信仰 (かのえさる)からの
様です。そもそも敷地の東北隅を削って潰したりもしますよね。
恥ずかしながら用語の区別が出来ていませんでした。鬼門除けと言うのが正しいのですね。
なぜ古河市に多いのかが気になりました。県境をまたいだ野田市では見かけなかったもので。
そもそも地名を間違えているのでは??
×神明町、〇新明町
いにしえの文献には神明とあります
>現在の地図を調べると、古河市小堤に神明町という地名が見つかる。
地図を見ると現在の地名は新明町ですね。
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