前回は親野井を訪れたが、さらに隣の次木を訪れた。戦前の世帯数は16、1990年代は43戸あったという。親野井とは異なり、農地解放で多くの土地を手に入れたと記録されている。そのため、部落の様相は親野井とは全く違うことが予想された。
最初に三嶋神社を訪れた。明治時代の記録ではここが氏神とある。
赤い鳥居が特徴の神社。鳥居の色や書体が親野井香取神社とよく似ているのが気になる。同じ業者の手によるものだろうか?
立派な社殿だが、これは前回の八坂神社と同じく、部落の神社ではないように感じた。位置は部落からかなり北の方にあり、離れている。
社殿の中が八坂神社に似ている。
石碑を見ると、氏子の名字は相澤、大谷が多い。これを覚えておこう。
場所は移って、前の記事でも出てきた関宿会館。ここが親野井と次木の境界のようなので、ここから移動していく。
地図の神社記号を手がかりに、次の目標である白山神社を探す。
神社は住宅地の中にぽつんとあった。周囲は木に囲まれておらず、三嶋神社よりもはるかに小さい。
この石碑の作り、書体は八坂神社と香取神社のものとよく似ている。やはり、同じ業者なのだろう。
そして、見て驚いたのがこの石碑だ。ほとんどの名字が竹沢。これで、八坂神社、香取神社、三嶋神社、白山神社がそれぞれ別の氏子であることが明らかとなった。明治期の記録では白山神社は両部落で祀っているとあるが、明らかに違う。
そして、両部落が江戸時代初期の移住者である田中彦七から始まり、後に伝染病で田中一族が途絶え、生き残った竹沢源太の子孫が増えていったという記録は信憑性が低いように思われる。親野井と次木は偶然隣り合っているだけで別起源であり、それぞれの始祖が田中彦七と竹沢源太だったのではないだろうか。
竹沢という表札は白山神社の周囲に多いが、住宅地図を見るとやは広い範囲に散らばっている。
廃墟はこの1軒くらいで、周囲は新しい家と古い家が入り混じっている。
馬頭観音を見つけた。古くからここに村があった証拠である。気になるのは「親次」という文字。両部落の名前の頭文字だろうか。2つの部落が隣り合っているのが必然であれ偶然であれ、古くから関係が密接であったようである。
竹沢という表札の家は、大きな家が多かった。農地解放で土地を得たというのは、本当のことだろう。