佐賀県では高校生が全国部落調査をオンデマンド印刷してメルカリで販売したら役所から児童虐待された痛ましい出来事があったため、啓発のためにさらに探訪を続けた。今回訪れたのは佐賀市大和町松瀬の三反田にある部落で、いわゆる未指定地区と推定される。
1935年の記録では、ここには8戸の部落があったとされる。産業は履物製造、農業、漁業。
三反田は、佐賀市の北の山の中に入った盆地にある。
佐賀の部落には番神堂があるということを前回までの探訪でお伝えしたが、ここでもすぐに見つかった。
この番神堂は扉はないが大きく、他の部落で見たものより存在感がある。「三十番神宮」と書かれている。
中には賽銭箱があるだけで、太鼓はない。
ここに番神堂の由緒が書かれている。創建は江戸時代後期の文政2年(1819年)で、1637年の島原の乱よりもずっと後のことである。とすると、島原の乱をきっかけに日蓮宗に入信したという伝承と矛盾しているのではないか。
前々回の改築は昭和14年、そして平成4年に道路改良に伴って移転・改築したという。
平成4年の道路改良によって付けられた道路が、この写真に見える県道209号線のことだろう。この道路ができる前は現在の番神堂前の細い道がメインの道路で、三反田の西側、道路の北側の斜面に部落があった。そこに道路が通されるのに伴って部落も移転した。
部落があったと思われる場所に入ると、石碑のようなものを見つけた。
猪畜魂碑である。他の部落でも見られた食肉業に関係するものかと思ったが、詳しい方によればそうでもないらしい。九州のこのあたりだと、狩猟をして熊1頭、猪1000頭につき1つの畜魂碑を建てる慣習があるそうだ。
この部落には猟師が多く、猪や穴熊を獲っていた。しかし、これは部落特有というわけでもないそうだ。
古い墓石がある墓地を見つけた。しかし、明らかに日蓮宗ではない。これは部落の墓地ではなく、曹洞宗のもののようである。
さら上に行くと…
立派な墓石がある、別の墓地を見つけた。これは日蓮宗のもので間違いない。しかも番神堂の氏子と同じ名字だ。
周辺の山林は田畑や民家だった形跡がある。民家は1軒だけ残っていた。
番神堂周辺の家はどれも立派だ。過去の記録では生活程度は下、昔の航空写真では立地がよくなく貧しい部落であったと考えられるが、その後事業で成功し、平成に入ってからは道路整備のため移転してちりじりとなり、昔の部落の面影はほぼなくなってしまったようだ。