今回は大阪市旭区の両国地区にやってきた。大阪市内とは言っても、ここは守口市との境界に近い。かつての部落の様子を明治期の地図で確認すると、都市部落ではなく農村型部落であったことが分かる。
昭和初期の戸数は110,1990年前後は160戸程度、それが2000年頃には110世帯に戻っていたと記録にはある。
最寄り駅は、この大阪メトロ今里筋線清水駅。駅のある部落と言えば住吉地区があるが、この清水駅は比較的最近できたもので2006年である。しかも、地下駅なのであまり目立たず、駅前商店街のようなものもない。
地図で今里筋線を見ると、両国地区の近くを通るように不自然に蛇行している。大阪市の同和行政に詳しい人物によると、これはやはり同和対策を意識していたそうだ。
しかし、駅前が同和地区の範囲に入るのかは不明である。見た目ではそうは見えない。また、もとは「世木の皮多」と言われた小さな農村部落であり、清水4丁目と5丁目の境界の東端のごく小さな一角が本当の意味での部落の場所である。
その方向へと進むと、大阪市ではおなじみの、団地形式の同和住宅がある。
しかし、周辺は民間の集合住宅も入り混じっていて、大阪市内の他の部落とは明らかに雰囲気が違う。
同和や人権といった掲示物はない。
ただし、人権協会があった痕跡はひっそりと残っている。
何やら紅白の横断幕が見えてきたと思ったら。
やはり富士工務店である。大阪府内の未指定地区も含む部落の土地を狙って買っていると噂される会社だが、筆者にとってはそれはもはや推測ではなく確信に変わっている。富士工務店の分譲住宅があることから、この場所が部落で間違いないと感じた。
事実、ここは同和対策の公衆浴場である両国温泉があった場所で、跡地が民間に売られてこのように開発されているわけだ・
ここが昔からある西本願寺派のお寺、誓願寺。ここが部落の中心部だった。
寺の壁にはブルーシートが。寺の雰囲気から、檀家つまりは古くからの住民がかなり減っていることが推測できる。
ここはかつての解放会館。閉鎖されてしまっている。
解放会館の周辺は新しい家が建っている。ここが部落であり同和地区の中心部なのである。
開発道路とあるが、これは同和対策ではなく民間の力で道路整備がされたということだろう。
同和対策の診療所。ここも閉鎖されている。
その隣りにあったのが老人憩の家。
近くには青少年会館もあったはずだが、すでに取り壊されて開発されたらしく見当たらなかった。
周辺には空き地や古い家もあるが、古い家のほとんどは空き家になっている。これらもいずれ解体されて開発されるだろう。
空き家となったアパートと、その奥にある道路に接していない空き地。
両国地区は、大阪市内の同和地区の中でも、最も解放同盟支部が穏健であったという。都市の中の農村であることが住民の気質にも影響していたのかも知れない。それゆえか早くから住民が散逸し、他地域からの移住者も多く、融和が進んでいたという。
過去の記録にも不審な点がある。大阪市同和促進協議会の資料では1967年には527戸あったとされる。一方で江戸時代に記録ではわずか11軒の穢多村、1917年の記録では67戸とある。
本来は部落でない場所も同和対策の対象世帯に含めたり含めなかったりしていたのでは?
細い路地の痕跡が残る場所。この家にも人が住んでいるようには見えない。
これも空き地だ。やはり、古くからの住民はいなくなり、かなり住民が入れ替わっている。
大阪市内でも最も解放同盟の活動が穏健だった地域が最も融和が進んでいるのは皮肉なことである。
いつも興味深く拝見しています。
置かれた環境だけでなく、過去の人たちの運動や考え方、その他さまざまな要素で、部落でも現代に至ってはいろんな形に様変わりしてきているのが伺えて、とても面白いです。
探訪先のリクエストをさせていただきたいのですが、
隣接する守口市の、かつて指定地区であった梶北も、是非探訪よろしくお願いします。
指定を返上しているという点で、摂津市鳥飼野々や藤井寺市林と共通するところですが、地元民はもう認識していないのか等、現在どのような状況なのか、興味があります。
また、願わくば、守口市に隣接する寝屋川市の未指定地区と言われている、黒原(夙)、点野も探訪お願いしたいです。
梶北を探訪候補に入れておきます。守口消防署東部出張所から金田公園の辺りですね。
ありがとうございます。
そうです、まさにそのあたりです。
ほんと、仰る通りですね。
橋本市長が介入して大阪市は本当の意味で解放されたのですかねー
周辺市長村はまだまだですね。
是非、北摂 泉州方面も宜しくお願いします。