松江市の松尾地区については、1975年の同和地区精密調査報告書に詳細に解説されている。それによれば1917年には62戸、1935年には71戸、そして1974年には137戸であった。
筆者が訪れた時の第一印象は、他のどの部落とも違う、非常に特徴的な光景である。そして、その歴史経過も特徴的であり、そもそも部落と言えるかどうかという問題もある。
この洞光寺から探訪を開始する。
島根と言えば小泉八雲ことラフカディオ・ハーン。彼は松江の観光地としてこの寺を推奨していたという。そして、この寺の裏手にある部落も訪れていたと考えられる。
寺の周辺は家が密集しており、細い道が多い。この先に見える階段が部落への入り口だ。
その階段を途中まで登って見下ろしたところ。
道の脇には大きくて、しかも古い墓地が。
一旦墓地の中に降りてみた。お堂があり、浄土宗が多いようだが、ここが部落の墓地なのかは分からなかった。
階段から墓地を挟んで反対側の高台から撮影した。同和地区精密調査報告書には部落が墓地に囲まれていることが書かれているが、実際に現地に訪れると、その光景は圧巻である。今ではいくつか外灯があるが、小泉八雲の時代には夜になると真っ暗で、ここを提灯を灯して歩いていたであろうと考えられる。
高解像度パノラマ撮影した。
YoutubeでVR動画も公開している。現地に行った気分になって楽しんでいただきたい。
部落は小高い場所にある。ここは「上の山」「山の者」と言われた。同和地区精密調査報告書には「山」は穢多の異名と書かれているが、大正2年まで死体の埋葬を業としていたとされており、すると穢多というより隠亡であろう。
この保育園は崖上の危険な場所に置かれていると報告書にあるが、今も立地は変わっていないようである。
もう1つの特徴は、松尾町の町域がそのまま部落の範囲に一致することだ。山陰の部落は大抵は本村に対する枝郷として存在する。そのことからも、ここが普通の部落とは違うことが分かる。
ここは松尾神社。
京都の松尾大社から分かれて出来た神社で、この神社の名前が町名となった。
神社の横には細い路地と古い家がある。
さらに歩くと、小さな墓地を見つけた。
宗派は浄土宗。名字は様々だが、上野、伊藤という名字が多い。ここが部落の墓地で間違いない。ここは洞光寺の檀徒ではなく、ここから北にすこし離れた場所にある信楽寺の檀徒である。
そして、お墓には白い顔で金ピカの衣装をまとった観音像が。なかなかインパクトのある見た目である。住民によれば昔からこのように顔が白く塗られていたが観音像の由来は不明で、なぜ顔が白いのかもよく分からないそうだ。ただし、願いをよく叶えてくれるという。
そして、お堂の中にも歴史のありそうな像が。釈迦如来と不動明王だろうか?
お地蔵様もさきほどの観音様と同じ出で立ちだ。
墓地から部落を見下ろすことができる。小泉八雲もここを訪れていたとすれば、大いにインスピレーションを刺激されたことだろう。
隠亡の仕事をしなくなってからは、廃品回収業が主な仕事になった。景気に左右される仕事だが、儲かるときは大いに儲かったということである。少なくとも、住民の生活程度が極端に貧しいということはなかったと考えられる。
この建物は何かと思ったら納骨堂である。
この地区の住民は寝た子を起こすなという傾向が強かったとされるが、同和地区指定され、事業が行われた。しかし、寝た子を起こすなというよりも、そもそもここが部落と言えるのかという論争もあったように思う。
部落の周辺は本当に墓地だらけた。無論、これらは住民のものではない。なぜかは分からないが昭和に入ってからも墓地は増え続けた。部落であるということは、こういった地域の見た目から比較的新しい時代に生まれた「風評」という要素も強いように思う。
ここが隣保館。この周囲が部落の中心部であるが、高台ではなく谷間のような場所にある。
ふもとの平地にもスクラップ業者が多いが、新しい家も多い。
しかし、谷の奥に進むにつれ、空き家や廃墟が多くなる。
こうなってしまうのは、差別というより立地の問題もあるだろう。谷間の奥には車が入れない。田舎で車のない生活は考えられない。
それに加えて、見た目のインパクトが強すぎる。呉市の山手は歴史的に被差別部落ではないのに風評から部落とされた事例だが、松尾町の風景はさらにその上を行っている。
しかし、観光地としてはおすすめである。小泉八雲の「怪談」に出てきそうな、この上なく島根県らしい風景を見ることが出来た。
こちらが”陰亡”の村だとすればたいへん貴重な地域だと思います。最近、70代後半の人で奈良県在住の人が火葬場の職員を”陰亡”と呼んでいましたので、部落の人ですか?と聞いたら、いいにくそうに「もっと特殊や!」という答えが返ってきました。動画の中で同和地区精密調查報告書に触れられていましたので、身近なところで京都の錦林部落の箇所を読んでみました。伝承では錦林部落の起源は犬神人だった記載されていました。そこで錦林部落をたずねてみましたが、何の変哲もない同和地区でした。明治以後、賤民イコール穢多そして新平民に集約され現在では無味乾燥な貧困の象徴として利用され金のなる木に変貌してしまっているように思われます。
部落探訪を応援します。中依知の古墳探訪もたいへん興味深く鑑賞させていただきました。ありがとうございます。
新平民に集約されたのは穢多非人だけで、隠亡のような雑種賎民は早くから平民に入れられていたのではないでしょうか。
さらに探訪を続けて研究を深めたいと思います。
ラフカディオ・ハーンは1891年(明治24年)5月に書いた文章で、松江の町と郊外には社会から除け者にされている四種の階層が存在する。鉢屋、小屋の者、山の者、穢多であると書いています。山の者はおっしゃる通り穢多ではないでしょう。山の者はこの時から襤褸、紙屑の回収の独占権を持っているとも書いています。死体処理については書いていません。1975年に松尾地区について調べた識者たちはハーンの文章については知らなかったと思われます。ハーンは山の者に伝わる「大黒舞」を見学に行きました。十数年前に松尾地区(宇賀山)を私も訪問し、松尾会館の方にお聞きしましたが、地区の古老も大黒舞については全くご存じなく、大黒舞は大正時代に消滅したのではないかとおっしゃっていました。山の者は芸能民の流れも考えられます。
おっしゃるとおり、部落かどうかは疑問で、ビジュアルの異様さが偏見の源ではないかとの指摘はうなづけます。ハーンの怪談のふるさとの一つと銘打って観光資源として開発してはいかがという提案も面白い。そういうポジティブな考え方を従来の偏見を一掃する役割を果たすと思います。
なお、山の者についてハーンの書いた文章を収録している小泉八雲全集は島根県の図書館で閲覧制限がまだされているようです。詳細な研究書についても同じ扱いだそうです。まったく時代錯誤で独善的です。
小泉八雲全集の何巻でしょうか?
とりあえず1巻は島根県立図書館では閉架にあるものの利用可とされていますが。
隣の鳥取県の者ですが、福原や菅田町より空気が重い。山陰の部落の中では唯一近代化のされていない町の上、他者を寄せ付けない道の作り。
小泉八雲全集は戦前版です。1930年刊行の5巻(学生版とあります)、第一書房。「心」附録の「俗唄三つ」で触れています。なお、「俗唄三つ」は現在では、河出文庫:塩見鮮一郎編『被差別文学全集』(2016年刊)で簡単に読むことができます。
ありがとうございます。ひとまず被差別文学全集、買っておきました。
平成の大合併以前の旧松江市には、3地区ほど同和地区と言われるところがあります。他は、賭殺業が生業のところ。もう一つが外れの町で街道沿いでの監視を仕事にしていた地区です。
この松尾町は、その昔隠岐島に島流しにされた人が釈放されて連れてこられた場所になると聞いています。町民の団結は強く、昔は結婚を含め他地区との交流がなかったようで、今でも町民は隠岐弁訛りの言葉が残るそうです。ほんとの隠岐出身者が町内を訪れたところ、みんなが隠岐弁訛りで驚いたそうです。平成以降に生まれた人はそうではないと思いますし、平成以降は転居する人も多いようです。
しかし、町内は3つの派閥があり、行政として手をいれようと思ってもいずれかの派閥は賛成してもほかの派閥の反対を受け物事が進まないため、都市整備がすすまなようです。
またその昔、近隣に「栄町」「新町」「幸町」という町名をつけ松尾町の住民の転出を考えたようです。新たに栄え幸せにとうような思いでつけられたようですが、それもうまくいかなかったような感じと思っています。
しかし、同和地区であることも最近は知らない人も多く、意識もしていない気がします。
ここは強烈に印象に残った💦お墓に囲まれた地域💦白い観音様も、YouTubeで見れなくなったのがすごく残念です💦
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JINKEN.TVでは見れます!
冒頭に紹介されている「洞光寺」と隣接する「極楽寺」およびその墓地が紹介されていますが、ともに松尾町ではなくて新町という隣町になりますね。
「この先に見える階段が部落への入り口だ。」
とありますが、これも誤りで金物店の先にあるT字路が入口になります。
以降は松尾町で相違ないです。
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コメントありがとうございます。車で入るなら金物屋の角ですね。