筆者は新発田市からさらに北東へ進み、胎内市にやってきた。大阪市立大学による『埼玉県,山梨県,新潟県での現地研修記』には下越地域の探訪記録がある。この中に「M浜」という名前で出てくるのが今回訪れた桃崎浜だ。
1928年の記録によれば32戸の部落があったとされる。
『埼玉県,山梨県,新潟県での現地研修記』の記述は次の通りだ。
車は荒川を渡り荒川左岸河口のM浜というところに入る。ここは集落が海岸に平行に展開している。2本の道路があり海岸側のは広く、もう1本の平行道路は狭い。狭いほうが部落の道路である。道巾がちがうのである。
現地に訪れると、まずは海岸側に広い道路があり、その奥に狭い道路がある場所を探してみた。
しかし、そのような道路は見当たらない。そもそも、道路は2本ではなく、4本くらいある。集落は非常に大きくて、何百世帯規模なので、部落があるとすれば、そのうちごく一部であることは間違いない。
新しい墓地を見つけた。ごく一般的な形の墓で、宗派は分からない。「小池」という姓が多いように感じた。
しかし、集落の中は特に違和感はなく、どこが部落なのか分からない。
空き地と古い家が有る一角があったので、近くの人に「差別された村」がなかったか聞いてみたが、全然知らないという。
この桃崎浜集落開発センターは明らかに同和施設ではない。
神社を見つけたが、これも部落とは関係なさそうだ。
どこが部落かさっぱり分からないので、立ち止まって地図を見返してよく考えてみた。
2本の道路というのは桃崎浜全体のことを言っているのではなく、桃崎浜の一角のことを言っており、さらにまたその一角が部落ということではないか? 経験上、部落は行政区画の端っこにあることが多い。
さらに、村上市の湯ノ沢部落はほぼ小池姓だけだということを思い出した。桃崎浜の部落が湯ノ沢部落から派生した可能性はないか、あるいはそうでなくとも湯ノ沢部落との交流が多かったとすればどうか。
その条件に合致する場所に行ってみると、広い空き地がある。
空き地の間には狭い道。これはもともと部落があり、道が狭くて不便なので住民が出ていった跡地とは考えられないだろうか。
比較的広い道を見つけた。ここが部落でない方の道で、さきほどの空き地の間の道が、部落の中を通る2本目の道ということではないだろうか。
ふと目をやると、見覚えのあるものが。
新潟の片田舎でこのようなものを目にするとは思わなかったが、これで部落がここであることは間違いないだろう。
胎内市は一応同和事業はやっていたと言われるが、住民に断りなく地区指定して予算を得ていたと言われる。そうだとすれば、胎内市当局が部落の範囲を正確に把握していたとは考えづらい。『全国部落調査』の桃崎浜という記述だけを見て事業を行ってしまった可能性もある。少なくとも、ここは大規模な区画整理が行われた様子はない。
むしろ、桃崎浜の中の部落でない「一般地域」がよく整備されているように見えるのが気になる。
何もなければ確証ないままでうやむやなのに人権ポスターであららって感じですね…
自称差別されてる側が勝手に証拠を出して他人に特定されるって今のネットみたいです。
ついに次回で節目の150回ですね
解同の欺瞞を暴く為これからも頑張って下さい。
無論、ポスターがなくても特定するつもりでしたが、解放同盟関係の物件は手がかりの1つです。
新潟であんなものを見るとは思いませんでした。
ひとつお聞きしたいのですが。
行政が同和団体がない事をいい様にして、部落民の知らない間に国から同和予算を引っ張り、
同和利用と別に予算を利用出来るんでしょうか。
実際に出来ていたようです。
だんだん分かってきたことですが、同和地区指定は全国部落調査を1つの根拠にしていたと思います。
しかし、全国部落調査の内容は地域によっては非常に大雑把なので、地名が掲載されているというだけで、部落でもないところを同和地区指定できたと思います。
宮崎県では全国部落調査に記載のない地区をどんどん同和地区指定していましたが、あれは何を根拠にしていたのでしょうか。
それは分からないので、宮崎県に行くことがあれば調査してみます。
出来ます。当時は情報公開制度がなかったし、今ほど説明責任は求められていませんでしたからね。
もっとも、今でも同和関係はブラックボックスです。
なんか村上市の岩ケ崎てとこに似てる
岩ケ崎は近々レポートしますが、もっと土地が狭いです。
何故かストリートビューもその道に入ってないですね。
いつも楽しく見させて頂いてます。
母方の実家が桃崎浜で私自身もキス釣りしにたまに行くんですけど、特に集落内で差別があったって話は聞かないです。自分自身割と興味ある事柄なので色々と聞き込んだりしてみたんですけど、神林村の方にあるらしい(恐らく湯ノ沢の事?)みたいに返された覚えあります。
ただ、どういう訳か胎内市(もと中条町)は同和教育が熱心で認知度は高いみたいな話は聞きました。自分は東京育ちで同和なんて成人するまで知らなかったので、その辺はちょっと意外に思いました。
足を運ばれているのでご存知だと思いますが、桃崎浜は荒川三湊とも呼ばれる北前船の寄港地だったので、多かれ少なかれそれに携わる港湾労働者が居たと思われます。ウチは代々漁師の家系(明治頃まで)だったのでその手の話はあまり詳しく伝わってなかったのですが、もしかすると集落内でも港湾労働者の子孫には同和系の話が根付いてるのかも知れません。割と大きな集落という事もあって端から端まで繋がりがあるという訳ではなかったので。
まあ単に私に対して口を閉ざしてるだけかもしれませんが。そういうのがありうるくらいに年功序列の色が強く、余所者に対して閉鎖的な集落でした。イジメ(子供も大人も)とか自殺もめちゃ多いですし、色々な意味で下越っぽい所です。
全然関係ないですけど、桃崎浜近くの乙(ここも全国部落調査に記載あります)の門前には美味い酒饅頭屋があります。長々失礼しました。
ありがとうございます。北前船のことは、近くの塩谷で聞きました。
ここに監視所のようなものがあったので、その役目をしていた人々が被差別民とされたと推定することもできます。
乙の酒饅頭屋にも行きました。店員に聞いてみましたが、地元の歴史には詳しいと自負している割には、部落のことは何も知らなかったです。
私もここ「桃崎浜の出身」です。実家は4番町でこの後ろ海側が5番町と言い「同和」小池・小島等の姓が多い。表現で小指を内に曲げて「1ッ本足りない」で平家の関係を表して、昔があります。私は同級生もいたので嫌でしたが小島君とは仲良しでしたね。五月の連休「八十八夜」には、キス釣りに帰省しております。住みよい人情のある部落です。
貴重なお話ありがとうございます
小池・平家伝説で湯ノ沢の部落とつながっているのが興味深いです
『埼玉県,山梨県,新潟県での現地研修記』の文章も少々おかしいのですが、
ループ氏は桃崎浜の集落内で海から2本目と捉えてしまっています。
しかも一般地区と隔てる農地への通路を2本目としてカウントして・・・
そうではなくて大阪市立大学の連中は車で海側の国道345号線を南下して
おり、そこから2本目なんですねぇ。ですから人権ボスターを発見した通り
それこそが部落の並びです。なぜかその通りだけグーグルストリートビュー
で見られませんが。部落姓が分かっていて、かつご自分で「マッポン」を
運営されているので気づくはずですが。。。
小島・小池なのですね…
示現舎で発刊された『姓氏語源辞典』ではどうなっているか存じませんが、
ネットで見られる同じ宮本氏の『姓氏語源辞典・人名力』では、桃崎浜の
善隣人名として全然違うものが記載されています。宮本氏が何を根拠に同定
したのか知りたいところです。陸側から2~3番目の通りにある姓ですので、
完全に間違っている可能性があるのかも??
荒井浜の者の子孫です。桃崎浜は北前船で栄えた村で、村とはいえ町のような趣だったそうです。
ここには川を渡す渡し守がおり、かれらが差別されていたようです。蔑視を伴ったかどうかは不明です。ただ、他の百姓身分の村人との婚姻はなかったようです。
海を渡る船乗りの村ですが、なぜか川を渡る船乗りだけ差別されました。このあたり、大出、乙などにも渡し守がいましたが、ここと同様でした。
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ありがとうございます。
荒川の渡しだったのでしょうか。