全国部落調査事件において、裁判所に部落解放同盟東京都連合会国立支部の宮瀧順子支部長による陳述書が提出された。その中で、国立市の部落について詳細に説明されていたので、実際に探訪してみた。
国立市の部落は国立市谷保にある。全国部落調査によれば小字名は「下組」。1935年の時点で戸数20、人口158とある。宮瀧氏によれば「部落は20戸ほどの小さな部落」ということなので、当時から戸数は変わっていないということになる。
最寄り駅は、この谷保駅である。谷保駅の周辺は部落ではないのだが、駅周辺は道が入り組んでいる。宮瀧氏は「大きな消防車や、救急車は部落を一周することは容易ではありません。道路幅が狭くて途中までしか入ってこれません」と述べているが、既に駅周辺がそのような感じである。古くからの農村であったところが、区画整理されないまま都市化したのだろう。
むしろ駅周辺のほうが部落っぽい光景が見られる。
入り組んだ道を抜けて、甲州街道を歩くと歩道橋が見えてくる。ここまで歩いて10分程度だ。宮瀧氏が「アクセスの困難さを解消するために、私が小学生の時に歩道橋も作られましたが、使い勝手が悪いために、結局ほとんどの住民が横断歩道を利用している状態で、アクセスの悪さは解消されていません」と言っている歩道橋はこれのことだろう。
ただ、特に「使い勝手が悪い」とは感じられない。ごく普通の歩道橋である。ただ、自転車を使う場合や、年寄りには階段はきついので、確かに多くの人は横断歩道を使うだろう。しかし、普通に信号があり、特に違和感は感じられない。
部落の中に入ると、やや道が細くなっており、かつての路地のたたずまいが感じられる。
掲示板を見つけた。「人権」とか「部落」とか「同和」といった掲示物は見られない。「下組」とあることから、ここが全国部落調査に掲載された場所であることが分かる。
通りがかりの人に部落解放同盟について知っているか聞いてみると、確かに20年位前に学校等の関係でそのような話を聞いたことがあるという。しかし、今部落解放同盟が何をしているのかは全く知らないということだった。
部落内には、自民党や公明党系の議員のポスターが目立つ。逆に解放同盟が強い部落にありがちな民進党のポスターは見られなかった。
一本松公会堂。これは国立市の施設で、地元の「下組自治会」が指定管理者となっている。実質的な自治会館が市の施設になっているというのは、あまり見られないことなので、いわゆる「隠れ同和施設」に近いものだろう。ちなみに、国立市役所に聞いたところでは、国立市に同和地区があるとは認識していないとのことである。
※その後の調査によれば、現在の一本松公会堂は同和施設ではありません。昔、白山神社をつぶして集会所が同和予算で作られて、解放同盟の動員の際に宿泊所として利用されたことが度々あったのは事実です。しかし、その集会所が老朽化したのを機に、2015年に集会所が立て直され、地元住民の寄付で白山神社が再建されました。国立では市の予算で作られた集会所は珍しくなく、地元自治会が有償で土地を貸与しているケースが多い一方、一本松公会堂の場合は無償貸与です。
公会堂の隣は白山神社で、きれいに整備されており、周囲は工事中であった。
宮瀧氏によれば、「あそこは『杉本』部落って言うんだよな。」と郵便局の職員から言われたとのことである。確かに、この部落には杉本姓が非常に多い。このアパートの名前も「杉本荘」である。
部落内には墓地があり、墓石にある名字もほとんど全て「杉本」である。
墓地の横には馬頭観音碑があった。街道沿いの部落なので、かつては街道における屍牛馬の処理をしていたのではないかということが、ここから伺える。
部落の近くには共産党のポスターが貼られた廃墟があった。ただ、表札は「杉本」ではないので、ここは部落外なのだろう。
宮瀧氏は「部落は、その周囲を交通量の多い道路と崖などで固まれています。行政区としては国立市に属しますが、結果として国立市の隅に追いやられた位置になり、交通アクセスが極めて悪い状態です」と述べている。
崖というのはおそらく多摩川の河岸段丘のことで、地図を見たところでは特に部落を囲っているわけではない。また、部落は駅から歩いて10分程度であり、すぐ近くに中央自動車道の国立府中インターがあるので、交通アクセスは「極めて悪い」どころか、かなりいい場所である。
解放同盟員というのは、ささいなことでも「自分は差別されている」と妄想する癖があり、それを鵜呑みにしてはならない。そんなことを感じた国立市の曲輪クエストであった。
ここは確か移転した地区ですね。
谷保6015番の谷保神明社が元々の白山神社のあった所で、
移転前の地区もその辺りだったと思います。
ハケ下ってやつですね。治水がなされていない頃は確かにあんまりいい土地ではないかも。
今の場所に移転した時に墓石とか馬頭観音も動かしたんじゃないかなぁ。
有名な所はあんまり探求心が湧かないんですよ。
移転はいつごろになるのでしょうか。1941年の航空写真を見たところでは、その時点で既に部落があるように見えますが。
移転は1818年から1859年の間のいつの頃か、と川元祥一『関東の部落を行く』131頁に記載があります。
そんな昔ですか。江戸末期ですね。
http://archive.fo/XC9Ht
ここに抜粋されてますね。移転時期の推定根拠等も書かれてます。
これで見ると、馬頭観音は安政五年(一八五九年)に現在の場所に新設したようですね。
非常に興味深い件ですね。ありがとうございます。
次は町田市の小山田あたりをお願いいたします。
小山田は地図をみたところ、何もなさそうですが…。何か見どころはご存知ですか?
すみません。
馬頭観音ぐらいしかないっすね。
そもそも町田市に指定された同和地区がないですしね。
失礼しました。
馬頭観音はどこにありますか? それ以外に何もないところを探訪してみるのも一興かと思います。
ここです。小山田緑地北東の白山神社にあります。
祭神は志良屋満比売命で北東にある萬蔵寺持ち。
http://blogs.yahoo.co.jp/okad024632/17157659.html
ただ、これが地区の証なのかどうかわからないです。
菊池山哉が訪ねた場所は小山田緑地の南側ですし、
小頭が置かれたのは、更に数百m南西にある南澤という小名だったような…。
南澤にあった白山神社は小澤家持ち、と伝えられてて、
現在は上根神社に合祀されます。
小山田の白山神社はいずれも緑地の北側にありますが、特徴的な名字とされる小沢や小冷は南側に多いですね。
今昔マップで1930年頃の写真を見ると、小山田中学校の辺りが南沢となっていて、神社の記号があります。
今はURの団地になっているので、もう部落は散り散りになったみたいですね。
座間の四ッ谷ってどうなんでしょうか。
街並みは路地っぽいし、最近無くなりましたがオンボロ市営住宅もありましたよね。
座間市四ツ谷はボロい市営住宅が立ち並んでいますが、部落ではありません。あの辺りは高度経済成長期に相模川の砂利採取の仕事を求めて、各地から流れ者が集まってきたという話は聞いたことがありますが。
流石ですね。座間には無いですよね。
栗原に非人小屋があった、という記録がある程度だったと思いました。
非人小屋なんてあっちこっちありましたし。
『近世日本身分制の研究』(塚田孝、兵庫部落問題研究所、1987)135-136頁によると四ツ谷村は大磯宿の長吏小頭の助左衛門の支配下にあったとか。部落認定された地区と、されなかった地区の違いはどこにあったのでしょう。他の部落との通婚関係の有無、などでしょうか。
そのような記録があるとは知りませんでした。
古地図や古文書に「穢多村」と記載があっても、明治以降は全く部落として扱われていない場所もありますね。実は部落とはもともと流動的なもので、融和事業や同和事業が逆に固定化させてしまったのではないかという疑いすらあります。
そうなんですね。
私は四ツ谷近隣が地元なのですが、四ツ谷は柄も悪いし、異様な雰囲気があります。
あと、川島姓が異常に多いので、路地だと思ってました。
四ツ谷近隣が地元ということは、うちからそんなに遠くないですね。
確かに電話帳で調べると、川島姓が多いですね。地元の郷土史家に聞けば何か知っているかも。ただ、部落ではないことは間違いないです。
座間の川島家は戦国時代の地元の豪族ですよ。
この座間家を含む四つの家が開拓したことから、
「四ツ家→四ツ谷」に転訛というのが地元の言い伝え。
ちなみに上で言う「支配」ってのは、
各村にあった「職場(馬捨場)」の縄張りを示すだけで、
部落があったわけじゃないですよ。
この地域を縄張りとしていた小頭を束ねてたのが、
大組小頭の助左衛門でしょう。
「助左衛門文書」を語るなら、もっといい本がいくらでもあります。
(原本は個人や図書館に分散して所蔵されたりしてお目に掛かったことがないけど)
神奈川(相州と武州の一部)は研究されつくしていて、「知られざる部落」なんてもう無いです。土着の姓もほぼ解明済み。
例のサイトはしょうもない芸能人のゴシップに転落してきたんで、
もう発表しません(笑)。
よくそのようなことをご存知ですね。
本当は国勢調査のデータと合わせた分析など、まともな研究がしたいのですが、裁判所は部落研究をアングラ化したいようなので、今のままでは表立っては出来なくなりますね。
https://goo.gl/maps/gu6KU9Rj1Uz
https://goo.gl/maps/NT2x2j78Kjr
こんにちは。>解放同盟員というのは、ささいなことでも「自分は差別されている」と妄想する癖があり、それを鵜呑みにしてはならない。
以前多摩青果まで仕事にいっていたので、この地域は知っていますがまったく同感です。色々この陳述書は??って感じです(笑)
私は魚釣り目的で周辺を歩きましたが、匿名さんの言っている谷保神明社(谷保天満宮)のうら辺りに見ればすぐにわかる部落らしき場所が今でも残っていますよね。 秋は田んぼの穂でいっぱいになり綺麗ですよ。
名無しさんのリンク先の場所ですね。。失礼しました。
参考ですが、かつての甲州街道の位置は今の甲州街道の位置ではなく、変遷しています。
谷保天満宮の本来正面にあたる部分が本来の旧甲州街道側で、多摩川の氾濫と流路変遷により甲州街道が付け替えになり、ゆえに今の甲州街道は本来は谷保天満宮の裏にあたります。
地域の人々は農業に従事しつつ、種苗を栽培して売り、糧としていたとの記録も確かありました。
国立の元々の中心は谷保駅周辺で、国立駅付近は後から開発された地域です。
空襲もなかった地域ですので、狭い路地も多く、また、東京都の都市計画道路である東八道路の延伸も関係して、建て替えもままならない地域として、昔ながらの風景がそこに残っていますが、谷保駅周辺は今後道路建設が本格化していく予定になっていて、買収も進んできていることから、いつかは風景が一変すると思われます。
学術的コメントありがとうございます。
東京都から神奈川県にかけて、部落地区の住人に杉本という苗字が非常に多く感じます。
杉本という被差別部落民が何世帯も有るのだろうと思うのですが、正確な人数って判っているのですか。
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