筆者は石狩平野を後にし、内陸部の代表的都市、旭川市にやってきた。
道外の者にとっては、北海道を一括りに見てしまいがちだが、実際は北海道内でも地域によって風土は異なる。風土が違えば文化も違う。文化が違えば考え方も違うということで、旭川のアイヌは道内の他の地域とは違うという話を以前から聞いていた。
北海道アイヌ協会の機関誌、「先駆者の集い」によれば、旧土人保護法廃止を求める声は、まず旭川のアイヌから上がった。1970年頃のことである。しかし、それはなかなかアイヌ全体の声とはならず、旧土人保護法が廃止されるのは、やっと1997年になってのことである。
また、旭川には「旭川アイヌ協議会」という、「北海道アイヌ協会旭川支部」とは別の、アイヌによる団体がある。
旭川アイヌ協議会が設立されたのは、1972年10月の「風雪の群像爆破事件」がきっかけである。「風雪の群像」とは旭川市の常磐公園にあるブロンズ像のことで、当時一部の人からアイヌ侵略の象徴であるとか、像の中にあるアイヌの造形が差別的であるといったことが言われていた。爆破事件は、アイヌではない左翼過激派による、アイヌにかこつけた犯行だったのだが、当初は像を爆破したのはアイヌではないかと疑われ、警察もそのような前提で捜査を行った。
そのような警察の動きに反発して結成されたのが旭川アイヌ協議会なのである。
そういった経緯があるので、旭川のアイヌは他の地域と比べて自主自立、反権力的な志向が強いと言えるかも知れない。
さて、筆者は旭川の中でも代表的なアイヌ観光名所と言える、「川村カ子トアイヌ記念館」にやってきた。
川村カ子トは大正~昭和初期に活躍したアイヌの鉄道測量技官である。記念館はカ子ト氏の父のイタキシロマ氏により創設されたもので、現在は息子の兼一氏が館長を務めている。この川村兼一氏こそ、旭川アイヌ協議会の会長である。また、記念館は公営ではなく、私設ということも、いかにも旭川アイヌらしいところである。
記念館では、他の博物館でも見られるようなアイヌの道具類の他、刺青の入れ方や、アイヌの裁判、刑罰についての展示を見ることが出来る。
筆者は、幸いにも川村兼一氏に会うことが出来た。砂澤ビッキの息子の砂澤陣氏によれば、川村氏は昔から考える前に行動するタイプの人で、それゆえ幼いころは「バカケン」と評されていたという。確かに、豪快な人物である。
まず、金子氏の「アイヌ民族なんて、いまはもういない」発言について聞くとこのような返事が返ってきた。
「河野本道って知ってる? 金子の言ってることはそれと同じだよ。金子議員を支援する会って、小野寺(秀・北海道議員)が主催しているでしょ。あいつが言ってることも同じだよ」
河野本道氏(故人・2015年3月2日死去)は著名なアイヌ研究者であったが、後にアイヌ民族の存在について否定的な立場を取るようになり、北海道アイヌ協会と袂を分かつこととなった。川村氏に言わせれば、あれは本道氏が言わせているんだ、ということなのだ。
当然、川村氏はアイヌ民族否定論には反発する立場である。それでは、行政による個人給付的な施策といった目的でアイヌを認定する時はどうやっているのか? するとまた、変な方向に話がずれてしまった。
「去年から変わったけど、春までは(北海道アイヌ協会)札幌支部長の阿部一司(阿部ユポ)に会って、そいつが認めるかどうか。阿部一司っていうのは、創価学会のすっとこどっこいで、お前が学会に入らないと会員にしてやらんとかそういう事言ってるから…」
念のため、阿部ユポ氏の名誉のために言っておくと、阿部ユポ氏は確かに昔は創価学会員であったが、現在は学会からは離れている。なので、「学会に入らないと会員にしてやらん」というのも後に筆者が取材した限り事実ではない。
ただ、さらに川村氏が指摘したのは、2012年に、札幌支部も含む、北海道アイヌ協会の各支部で架空の領収書を書かせたりなど、不正経理が相次いで明らかになったことだ。そして、川村氏が言いたいのはこういうことだ。
「金子は阿部一司の不正を暴きたかったんだから、それだけにしとけよ。何がアイヌはいないだ。余計なこと言うから悪いんだあいつは」
旭川でも、北海道アイヌ協旭川支部長が架空の事業を補助金を受け取るということがあったという。
不正経理の問題だけでなく、他にも川村氏とアイヌ協会は相容れないところがある。例えば、全国の大学や研究機関に置かれているアイヌの遺骨を白老の研究施設に集めて、DNAを調査して、研究対象にしようとしていることだ。
「自分の先祖の骨を売って国立博物館作ってもらうのか。あんなものはアイヌ協会ではなくてウェンペ協会だ。アイヌというのはいい人だけをアイヌと言うんだ。悪い奴はウェンペ。あんな奴は人間じゃねえ」
川村氏はそう憤り、もとどおり遺骨を墓に納めることを主張する。
また、川村氏は民主党政権時代に行われたアイヌの実態調査についてのエピソードも語った。
「(東京の知人の家に)大学生のアルバイトが電話してきて、あなた純粋なアイヌですか、混血ですかと聞くので、馬鹿にすんなと思ってガチャンと切った。その後、手紙が来てアンケートに答えてくださいというけど、誰が答えるかと」
アイヌは身元調査のような事は嫌う。こんなことでは半分も回答しないし、調査はいい加減なものだろうというのだ。
確かに、2010年10月に「北海道外アイヌの生活実態調査」が行われている。政府のアイヌ政策推進会議の作業部会が、アイヌ協会の協力で、北海道内のアイヌから道外のアイヌを紹介してもらうという方式で対象を把握したのだが、把握できたのは241世帯、そのうち回答したのは153世帯、回収率は63.5%という結果だった。
アイヌ政策推進会議は「今回の調査は全数調査ではなくサンプル調査であり…調査対象者の数が限定的であったとしても十分に意味のある調査といえるであろう」と報告しているが、本当にそうなのか。
川村氏と言えば、2009年に、天皇陛下の謝罪、5兆円の賠償等を求める申し入れ書を内閣官房アイヌ政策推進室に提出したことがあった。それにしても、なぜ5兆円なのか。川村氏に聞いてみた。
「土地代金。明治2年に誰の断りもなく一方的に(北海道および北方領土を)日本の領土にしたんだから。(その金で)オレはアイヌ大学を作って、アイヌ語も、工芸も、踊りも、歌も、勉強できる大学を作る」
川村氏の目標は、アイヌコミュニティの復活である。
その一方、1997年にアイヌ文化振興法が出来た時の、こんな裏話もしてくれた。
「オレたちは18年前、ウタリ対策資金について、『なくなっていいよ』って言ったんだ。それなのに、北海道の各市町村の福祉部が、なくさないでくれと。なんでか、例えば2年前に静内で町の奴がアイヌの家に行って、住所変更してくれと。住所変更したら、そこで道路工事が始まった。そういうことを各地でやってんの」
つまり、アイヌ対策の資金はアイヌのためというより、北海道の市町村の利権になっているという面もあるというのだ。
(次回に続く)
こんにちは、いつも鳥取ループ様の記事で勉強させて頂いております。
当方、北海道から遠く離れた横浜で育ったもので。
亡くなった父は私をアイヌから遠ざけたかったようです。
謝罪と賠償請求の話を聞いた時、チラと思いましたが。
やはり兼一氏はカ子ト氏のお血筋だったのですね。
「アイヌ民族はいない」は、河野本道氏以前に、千里真志保教授のお言葉ですが。
主観で見るか、客観で見るかの違いと思いました。
日本に併合されなければ、ロシアに呑みこまれるだけでしたし、
アイヌには近代国際社会を生き抜く当事者能力はなかったのです。
現に、千島・樺太交換条約以後、樺太残留アイヌも困窮し、次々に北海道に渡って来ています。
日本側に逃げ切れなかった人々は、最終的に奴隷として売られたそうですが。
カ子ト氏の祖母テルシさんは和人で、奥様のトメさんも和人。兼一さんの奥様も和人では?
少なくとも、私は、口の周りに刺青を入れる時代に生まれなくて良かったと思っています。
折角、アイヌ系美人に生まれたんですから。
おっしゃる通り、どう転んでも北海道がアイヌだけの土地であり続けるという選択肢はなかったと思います。
理由は、まずアイヌの絶対数が少なかったことと、分散していて都市を作らなかったことです。
また、アイヌや沖縄だけがクローズアップされますが、考えてみれば明治維新で中央集権国家が出来る前は、
日本各地がそれぞれ別の国であって、それらが強制的に1つにまとめられる課程で北海道だけ例外ということは難しかったと思います。
戊辰戦争で幕府軍が勝っていれば、また違ったかも知れないですけどね。
集団的自衛権賛成
深い問題が有りますね。
自分はアイヌ文化等は歴史辞典で知っていましたので感心は有ります。
黒田清隆が、ケプロンのアメリカインディアン対策で「成功」した政策を採用し、土人を積極的に植民させ、旧土人はコロニーを分散させて(土人:北海道和人、旧土人:北海道アイヌ)を管理するやりかたを進めたためで、ある意味、明治政府の臨んだ通りになって行ったということだ。