馳向部落探訪の後、別件の用事がキャンセルになってしまったので、しばし時間を持て余すこととなった。そこで、スマホで近くの部落を探すと、同じ桜井市に大福という地区がある。そこで、準備不足ではあるが急遽そこへと赴くことにした。
1935年の記録では大福南方部落の世帯数は215,人口は1117とある。地図をみると、吉備北方部落が隣接しており、同じく98世帯、499人とある。名前から想像すると、大福と呼ばれる地域の南部、吉備と呼ばれる地域の北部が部落であると考えられる。「南大福」「北吉備」という呼び方もされる。
2つの部落は1つの大きな部落と見ることもできるし、どこからどこまでが大福で、どこからどこまでが吉備なのか現地からは分かりづらいので、まとめて探訪することにした。
ぱっと見た感じでは、道路は非常によく整備されている。駅も近いし、土地としてはそれほど悪い場所ではない。
1957年の『同和問題資料 No.4』によればここは湿地帯だったそうで、当時の大福は320世帯、1360人、吉備は145世帯、562人だった。主な産業は大福では靴と日稼ぎ、吉備ではビニール草履とある。寺院、神社、浴場、保育所は2地区は共同とあるので、2つの部落は1つと見ることができるという筆者の見立ては間違いではないようだ。いずれの部落も、典型的な地方都市の労働型部落と言えるだろう。
1968年の『全国同和地区実態調査結果・精密調査』にも掲載されており、1967年の当時の大福は482世帯、1641人、吉備は210世帯、670人と記録されている。この資料では「伝統産業型」部落に分類されている。混住率は25%とあるので、住民の4分の3は比較的最近の移住者ということになる。1913年には大福と吉備を合わせて134世帯、907人であったことも記述されている。
『全国同和地区実態調査結果・精密調査』には、履物、さらにはゴム、ビニール草履が主な産業で、戦後はグローブ・ミットの製造も行われるようになったと記述されている。
1947年の航空写真を見ると、近鉄大福駅の南に家が密集した大きな集落がある。その北と南にもそれぞれ集落があるのだが、これはいずれも「部落ではない」大福と吉備の集落と考えられる。大福駅北のニコイチ群はもともと田んぼがあったところで、ここを潰して同和事業の公営住宅用地にしたのだろう。
掲示板には「大福・吉備区自治会」とあるので、やっぱり2つの地区は一体だ。
ここは第一保育所。ご覧の通り同和保育所であることがすぐに分かる見た目となっている。グーグルの口コミは辛辣だ。ただ、口コミを書いた人もちょっとアレな気がするので、真に受けない方がよいかも知れない。
馳向地区は、混住が進んでいるためか、あまり露骨に同和を主張するものは見られなかったが、ここはあからさまに同和地区である。同じ桜井市内でも地区が違えばこれほど変わる。
ここは桜井西ふれあいセンター。全隣協にも加盟している隣保館である。
駐輪場の壁に何やら見覚えのあるものが。すっかり忘れていたが、ようやく思い出した、部落マニアの間で話題になっていたこのモザイク画があるのがこの部落だった。とすると、このモザイク画の裏側や細部がどうなっているのかが気になることだろう。
裏側はこの通り。ただのベニヤ板に砕いたタイルのようなものを石膏で貼り付けた構造になっている。
このような物が部落の公的施設にあったら、撤去しろと住民から苦情が来そうなものだが、何年もここにあるのは、この地区の事情があるのだろう。ご覧の通り、ただのベニヤ板なので下から朽ち始めている。下のプランターと鉢植えを増やして、水をやる時になるべくモザイク画にかかるようにすれば、もう少し朽ちるのが早くなるかも知れない。
これは隣保館の前にある蓮台寺。調べてみると、これは浄土宗のお寺なので、部落の寺ではないような気がする。
もっと部落を主張する物件がないか探してみると、墓地を見つけた。
墓地内には、相田みつをにインスパイアされたような書体の石碑が。
そしてこの石碑である。この池田墓地は「同和問題解決への強い熱意により同和対策事業の一環として」作られたことが高らかに表明されている。
墓地を見ることは、その部落を理解することにつながる。墓地に書かれた名字が多様であることは、この部落が明治以降に様々なところから集まってきた移住者によって形成されたことを示唆している。
部落内に廃墟と空き地は多くはなく、それなりに活気のある地域のように見える。
戸建ての家が多いが、改良住宅もしっかりと存在する。
細い路地と、関西の部落ではよく見られる個人経営のたこ焼き屋、お好み焼き屋。
部落内で特に住宅が密集しているところをパノラマ撮影した。ここは部落というだけでなくスラムであり、道路の左右の家がせり出して、こんなにも道が細くなったと考えられる。
ここが光専寺。浄土真宗本願寺派の寺で、まさしくここが部落の寺だ。境内には全国水平社80周年記念の部落解放運動記念碑があるらしいが、関東の寺は小さな寺でも観光客が自由に出入り出来ることが多い一方で、関西の寺はなぜか門を開放していないところが多く、ここも例外ではなかった。
ここは老人憩の家と共同浴場。
公園がある。これも同和施設だ。
『同和問題資料 No.4』にある大福と吉備の共同施設である保育所、寺、浴場を既に探訪したので、最後の神社を訪れた。おそらく、この春日神社のことだろう。
この神社には差別とのたたかいの歴史が刻まれていた。部落解放同盟は反天皇制を掲げているが、かつての部落の人々は解放令を出した天皇を敬っていたことが分かる。
人権ゆかりの地をたずねて
http://www.city.sakurai.lg.jp/life/life20/jinkenyukarinochiwotazuneteningenmappu/1395110170291.html
光専寺内部落解放運動記念碑
大福吉備の地は古来より笠神村と称され、藤原鎌足をまつる旧多武峰妙楽寺と深いつながりがあるといわれ、寺に大織冠(たいしょくかん)の御影(みえい)が一幅対あります。
また、明治期の笠神村一村独立運動や中和水平社の前身である「三協社」の結成など、戦前、戦後を通して県内の水平運動・部落解放運動を支えてきた地域です。
平成14年(2002)光専寺境内に、全国水平社創立80周年を記念して、部落解放運動記念碑が建立されました。
大福水平社日誌
http://www.blhrri.org/old/info/book_guide/kiyou/ronbun/kiyou_0084-09.pdf
大福水平社の所在地である大福吉備部落は奈良盆地の南部に位置し、近世社会では領主支配の結果、四つの部落に分かれていた。
近代になって一村として独立しひとつの部落となったが、その後行政区画によって磯城郡大福村の大福部落と香久山村の吉備部落のふたつの部落に分割された。
しかし、生活や人間関係などではひとつの生活共同体を形成していた(現在は、桜井市に大福吉備部落として存在している)。
一九二○年における大福吉備部落の戸数・人口は、二一四戸・一○三六人で、奈良県下では比較的大きい部落で、農村部にありながら下駄や草履の表の製造・販売などが主体となり、これが基礎となって比較的開明的な雰囲気の入り易い部落であったという。
人権ふれあいセンターは大福と吉備で共用なんですね。
あと関東のお寺は門を開いてることにびっくりですね。
実家は関西のお寺ですが、門は閉めたままです。
寺の門については、なぜ関東と関西で違いがあるのか分かりません。
大阪や奈良だと、寺の門は普段は閉まっているのが当たり前だと誰もが思っているようです。
しかし、関東だと常に開きっぱなしなのが当たり前なんですよね。
この違いに気づいたのは私もつい最近のことです。
関東方面に来た際は、ぜひ寺の門を注意して見て下さい。
ここから隣町の橿原市にある飛騨町、上飛騨町には訪れたことがありますか。
ニコイチの市営住宅(空き家のように人の気配がない)が多く、他の部落に比べても閉鎖的な雰囲気があります。
是非ご探訪ください。
承知しました。探訪先候補に入れておきます。
近世社会では領主支配の結果、四つの部落に分かれていた。
近代になって一村として独立しひとつの部落となったが、その後
行政区画によって磯城郡大福村の大福部落と香久山村の吉備部落
のふたつの部落に分割された。しかし生活や人間関係などでは
ひとつの生活共同体を形成していた。
詳細な解説ありがとうございます