曲輪クエスト(57)豊川市三上町勝山

カテゴリー: 曲輪クエスト | タグ: , | 投稿日: | 投稿者:
By 宮部 龍彦

部落と古墳には何か関係があるらしい。例えば全国の部落の分布古墳の分布は共通する部分があるように思える。

2ちゃんねるに、このような書き込みがあった。

225 :日本@名無史さん:2009/07/18(土) 04:07:17
そもそも橋のない川に洞部落の強制移転の話がある。
洞村は神武天皇陵の陵戸の子孫の可能性が高いんだよ。

それとこれは俺の地元(東海地方のどこか)の話。
学生時代に物好きな友人が見てみたいと言うので、
何人かで近隣で有名な被差別部落の見物に行った事がある。
なおそこは非人ではなく穢多の村。
そこは元々近所に古墳がある地域だったんで、
俺はその部落は墓守の子孫の可能性はあるとそれ以前に指摘した事はあった。
とはいっても大きな古墳からは少し離れているし、
見た時点では可能性の1つとして考えていただけだった。
村の信仰の中心は例によって白山神社で小さな山の麓に建っていた。
参拝した後で見に行った内の1人が、
「あの山の上に古墳があったりしてな。」と言ったので、
「いくらなんでもねえだろ。あったら怖いよ。」と返しておいた。
この時はそれで終わったのだが、
数年後、その山の頂上で本当に前方後方墳(ここポイント)が発見された。
報告書を読んだ時は本当に背筋を冷たいものが走った。
一緒に見物に行った友人の1人に伝えたが、
「これで墓守だったのは確定ですね。」
「1600年以上差別が続いた事になるな。」
「部落差別って本当に恐ろしいわ。」
などと話し合ったものだ。
因みにこれは1980年代の実話。
墓守の子孫が被差別部落になった例は想像以上に多くあるだろうと思っている。

2ちゃんねると言えば、ネットのデマの代名詞のように言われるが、信憑性の高い情報もかなり多い。上記の書き込みついては、それに合致する部落があるという情報を頂いた。それが、愛知県豊川市三上町勝山である。この部落の白山神社の裏手に勝山1号墳という前方後方墳がある。

部落の入り口には人形屋があり、ごく普通の田舎の佇まいであり、違和感はない。

右側にあるのは民進党のポスター、真っ直ぐ行って阪を登ると白山神社、左側に権現山古墳の案内がある。2ちゃんねるの書き込みに「元々近所に古墳がある地域」「大きな古墳からは少し離れている」とあるが、その古墳とはこのことだろう。

先に権現山古墳に行ってみる。正面にあるのは給水タンクで、東名高速道路からも見える。

草を刈っただけの山道を進むと、古墳の案内板がある。権現山古墳は2基の前方後円墳からなり、4世紀後半ごろに築かれたものだという。

2号墳だけ見てきた。確かに山の中に古墳らしい盛り上がりがある。

引き返して、白山神社へと向かう。急傾斜地崩壊危険区域とある。

白山神社の脇に墓地がある。ぱっと見たところでは、日蓮宗が多い。「日蓮宗の部落にはニコイチが建たない」というのは筆者の仮説だが、この部落は法則に従っている。

墓地から見た部落の様子。至って普通の田舎の村である。

さて、いよいよ白山神社の中へと進む。

目につくのは、この緑色の舞台。古墳がよく見渡せるためのものだろうか?

舞台から神社と裏山を見た様子。確かに、山の中にさらに盛り上がっている部分がある。さきほどの権現山古墳を見た後であれば、あ、これは古墳ではないかなとひと目で分かる。比較的最近まで発見されなかったのが不思議だ。

古墳へ向かう方向には、丁寧にもはしごが設置されていた。

古墳の頂上に着くのは簡単だった。ここには三角点がある。これは古そうなものだが、三角点を設置した人は古墳と気づかなかったのだろうか?

古墳の中心から後方部を見たところ。

こちらは前方部。

古墳の麓から、斜めに見たところ。左側が前で右側が後ろとなる。かなり形が崩れていて、見た目だけは前方後円墳か前方後方墳か分からないが、心なしか後ろ側の墳丘は角があるように見えなくもない。

鳥居ができたのは大正12年。ここは昔から山本姓が多かったようだ。確かに、部落の家々は山の本にある。

鳥居の近くには百度石が。これがあるということは、お百度参りした人もいたのだろう。

田舎にありがちなレトロな看板。

部落を歩いていると、これは確実に90を超えていて、もしかすると100歳行っているのではないかという老人に出会った。せっかくなので、古墳について聞いてみた。

「白山神社の裏に古墳があるそうですが」

「あ、あれならうちの孫が“行ってみたけど、何もなかった”と言ってましたよ」

「あの古墳は昔から知られていたのですか?」

「古墳というほどのものではなくて、ただ、言っていいのかな、棺桶が見つかったんですよ石で出来た」

「それは最近のことなんですか?」

「いえいえ、昔のこと。私がここに来たのが80年前だから…」

「80年前ですか?」

「いや、それよりもっと前!」

ということは、古墳と認識されていたかどうかはともかくとして、白山神社の裏山に昔の墓らしいものがあることは、かなり昔から知られていたようだ。ただ、何か具体的な伝承が残っているわけではなく、1980年代に改めて調査がされて、古墳であることが判明したということだろう。

ジャングルジムと滑り台のある公園。どこにでもありそうなものだ。

集会所も町内会が管理しているもので、至って普通。隣保館はない。

1935年の調査では戸数45、人口220。隣保館は50世帯以上の同和地区に設置されるので、ここは基準を満たさないが、教育集会所なら30世帯以上あれば国の補助が出た。教育集会所もないということは、特に熱心に同和事業をやらなかったか、あるいは指定されなかったのかも知れない。

集会所は昔の城の跡だったようで、石碑がある。

果たして勝山は墓守の部落だったのか、1600年以上差別が続いたのか、それはよく分からなかった。

宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

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曲輪クエスト(57)豊川市三上町勝山」への32件のフィードバック

  1. 名無し

    大変興味深い記事です。
    西尾市吉良町にも古墳のふもとに白山神社がある場所がありますが、その周辺が部落とは聞いたことはないです。

    返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      西尾市吉良町乙川西大山4の白山神社ですね。
      仮に古墳と部落が関係があったとしても、全てが部落として現在まで残っているわけではないと思います。
      特に全国部落調査は貧困に主眼を置いていると考えられるので、貧困を脱した部落については載っていない可能性もありますね。

      返信
  2. 名無しのハムスター

    そもそも、愛知県ではなかなか、
    『身分門地による差別を止めよう』
    的なことを見聞きする機会がないです。集落を部落と呼ぶ年輩者も多いですし、被差別部落についても分からない人の方が多いと思います。

    返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      それは、個人的な体験によることが大きいです。同じ県内でも市区町村、同じ市区町村でも校区、同じ学校でも学年、担任によって大きな違いがあります。

      返信
  3. 音野

    古墳と神社の分布の共通性もありますが、被差別部落の分布と重なるところは確かに多いですね。
    特に奈良県とかですね。
    洞も地元ではいわれひこが東征してきたときにお供してきた人たちの子孫という伝承が残ってますね。

    返信
  4. 名無し

    西尾市で思い出したのですが、西尾市貝吹町に大牛切という地名がありますが、こちらは部落と何らか関係あるのでしょうか?
    直接関係のないコメントでスミマセン。

    返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      私も同和地区Wikiに書かれている以上のことは分かりません。
      地図を見ると、貝吹町大牛切には民家はなくて、あるのは花火の工場だけみたいです。
      危険物を扱うので、民家から離れた谷間の土地は最適なんでしょう。

      返信
  5. 惣兵衛

    本スレの、
     163 :日本@名無史さん:2008/06/17(火) 14:39:13
     >>161
     基本的に、今の部落民と律令下の五色の賤はつながりがない筈なのだが
     なぜこんなに必死に、古墳古墳というのだろうか
     律令下の五色の賤は、律令制のゆるみと共に良民との通婚が黙認されるようになり
     賤民と良民の子は良民とされるなど、どんどんと身分が曖昧になり
     律令制の崩壊と共に五色の賤は廃止されたので、現在の部落民は別の系列
     そんなこともしらんやつが結構居るな、日本史板も落ちたものだ
     どちらかというと、律令時代から差別されてきたと言って何かのネタに使うつもりなのかもな
    が言い当ててると思いますよ。

    後、リンク先の2つの分布図の窮迫部分は山岳地帯が多いと思うので、
    これだけで感覚的に判断するのはどうかと。

    古墳と部落は配置される条件に共通項が多いから、
    結果的に隣接しているケースが多いだけだと思ってます。

    返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      確かに、私から見ても古墳の分布図との比較は大雑把すぎると思います。
      経度、緯度を正確に把握して、部落との距離関係を1つ1つ比較し、有意な関係があるか調べる必要があります。
      古代の賎民と現在の賎民の繋がりはないことは分かりますが、洞部落のような例もあるので、何か関係が分かる可能性もなくはないと思います。

      返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      祭りの紹介ありがとうございます。田舎のこういう祭りが残っているところっていいですね。

      返信
  6. 北村でんじろう

    南朝の貴種流離譚が大体続きます。
    打桐さんも移住はこれで打ち切りにしたいと浜松市の豊成神社まで分布しますね。

    返信
  7. 打切豊成

    レッドバロンの左右の部落を語らないと駄目ですね。三河万歳の神社もすぐそばだし影目さんや鵜飼さんの本貫地では?宮本さん?

    返信
  8. スタリオン

    先日、癌封じで有名な愛知県蒲郡市の無量寺へいったのですが、
    寺の本堂の横、洞窟めぐり的なところの入り口横にダンボールがつんでありまして、
    その上に非常に状態のよい「同和問題資料集成  編:同和人権対策研究会」がおいてありました。

    返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      それはおそらくエセ同和本ですね。
      買わされたのではないかと思います。

      返信
  9. 遠州屋

    地元(豊川市・豊橋市)では「部落といえば三上だ!」というくらいの話はありますが、おそらく昭和40年代前半以前に生まれた世代の知識だと思います。ただし、人にもよりますが、令和元年時点で80歳を超えた人でも地元に被差別部落が存在したという事を全く知らない年寄りも地元では存在します。従って、三上については“なんだか知らんけどたまになんかで聞く地名だな”程度の場所ではないでしょうか。また、三上は静岡県と愛知県の県境である本坂方面から東名豊川インターチェンジと飯田方面に向かう国道151号線をつなぐ便利な抜け道となっているので三上の部落を知りたい!と思う御仁には“あそこだよ”と言ってやればたいてい検討がつく場所です。そして、三上について地元のわけしり者で言及されるのが不自然な豊川市と豊橋市の境界線というものがあります。豊川市の三上が豊橋市に不自然に食い込むように境界設定されているのは三上が被差別部落だからであるというような話しをされる方も一部にはいます。しかし、だからなぜ三上が豊川市に属すようになったのかまで語られることはありません。一見不自然な市町村の境界線は被差別部落の存在に由来するとは限らないだろうし、自動車で各地を走ると県境だったり市町村境が目まぐるしく入りこんでいるのは珍しくない。だから別の要素の方が多いのではないだろうかというのが率直な感想です。
    この三上の他にも同じく豊川市の小坂井地区あるいは豊橋市の花田町などは被差別部落として語られることがある。しかし、いずれにしろ「小坂井地区のどこが」「豊橋市花田町のどこが」と深く詮索されたとされる話は聞いたことがない。実際に豊橋市の花田町を「探訪」してみたが区画整理によって道は整備され、新しい住民の流入・企業の立地・郊外型の飲食店などの進出で住宅地・商業地が形成されており、それらしきところは発見できなかった。丹念に調査すれば痕跡は発見できるかもしれませんが豊橋市花田町の被差別部落はかつてあった「被差別部落」という位置づけしかできないと思う。
    話しがそれた感がありますが、着実に豊川市の三上。付け加えるならば豊橋市花田町の被差別部落は着実に融和と解放がすすんでいる、あるいはすすんだ場所だと地元に生まれた者として云う事ができます。

    返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      ありがとうございます。豊橋市花田町・豊川市小坂井地区を探訪候補に加えておきます。

      返信
      1. 遠州屋

        豊橋市花田町と豊川市小坂井地区を探訪候補に入れていただきありがとうございます。豊橋市花田町はもともとかなり広い地域で被差別部落とされたのは花田町石田です。現在は前田南町になっています。全てが被差別部落ではないと思います。前田南町のとなり向山町字水車も被差別部落とされていて、こちらの方が部落の痕跡はあるかもしれません。間に柳生川を挟んで佐藤町一丁目に団地が建っていますが、もしかしたらそこも被差別部落だったかもしれません。区画整理にともない、住民がそこの団地に引っ越したのではないかと思われます。また、部落外に転居した世帯も多くいたようです。後でわかったことですが、被差別部落から引っ越してきた何名かの同級生がいました。しかし、差別されていたとか虐められていたとかは聞いたことがありません。
        前田南町(花田町石田)には伊藤屋という焼肉屋さんがあります。店主の態度が傲慢で評判は良くありませんが、味の評判は良いです。
        最後になりますが、「部落問題入門」をアマゾンで注文し、「日本姓氏語源辞典」を予約しました。
        これからも「示現舎ブログ」、youtube「部落探訪」に期待しています。(寺院・墓地・神社からのアプローチが特に興味深いです。)

        返信
  10. 遠州屋

    浜松から豊橋の石田部落を見学に行きました。部落の墓地を見てきましたが、ほぼ日蓮宗もしくは日蓮正宗のようでした。「釈」が刻まれた戒名を持つ墓石が一軒だけありました。全部で100軒以上ある墓地かと思います。完全に区画整理され墓地の苗字から推察できる古い住民も新しい住宅に住んでいます。同和施設は多分ありません。同和事業や解放同盟がなければ解放・融和できるという良い見本になる地区かと思います。

    返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      豊橋市前田南町2丁目ですね。機会があれば行ってみたいです。

      返信
  11. 三州吉田レッドダイヤモンズ

    はじめまして。
    石田町に訪れるのでしたら都合が付きましたらお付き合いしたく考えております。ご迷惑でなければ。
    そこは中学校区でしたし、そこに住む人とお付き合いしていました。
    親からは「できれば別れて欲しい」と言われた事もあります。
    一年ほど前にネットサーフィン中、同和地区wikiがヒットして愛知県を確認したところ花田石田を見た瞬間涙が出てきて彼女を思い出しました。

    返信
  12. 遠州屋

    【訂正】お詫び
    以前花田部落には同和施設はたぶん無いとコメントしましたが、石田部落に近接した団地は村の住民の入居を目的にした可能性が考えられるので2020年1月5日のコメントを訂正してお詫びしたいと思います。

    返信
  13. ばたこ

    豊川市出身、豊橋市在住の者です。
    小坂井地区というのは新町部落のことでしょう。
    肉屋が数件と太鼓屋があるので間違いないと思います。
    朝鮮系の住民が多いので、パチンコ、焼肉、韓国料理屋もあります。
    ニコイチもありますが、地区内に点々とあり纏まっていないのでわかりづらいかもしれません。
    あと豊橋市の部落ですが、前田南町2丁目と向山町水車には大きな市営住宅があるのでその付近だと思います。
    前田南町には有名な黒塗りの組事務所もあります。
    ぜひ豊橋市と豊川市の探訪をお願いします。
    探訪の際は情報提供致します。

    返信
    1. 鳥取ループ 投稿作成者

      情報提供ということは、探訪に同行して頂けるのでしょうか?

      返信
  14. ばたこ

    あ、特別詳しいというわけではないので同行はできませんが、部落と思われる場所やニコイチのマッピングくらいならできます(^_^;)
    ある程度地元の情報があった方が効率がいいかと思いまして。

    返信
  15. ばたこ

    了解しました!
    微力ながら、お役に立てれば嬉しいです。
    アドレスはどちらに記載されていますか?

    返信
  16. 遠州屋

    豊川市小坂井町には宿白山部落もあります。柳田國男の「毛坊主考」にはこちらの部落について言及があります。以下、引用。

    三河宝飯郡小坂井村大字宿については、『宝飯郡誌』の記事を引用して宿は穢ある婦女の別室なりという説を認めんとしておられる。別所と産所との同視は自分の承服せざるところである。別所は九州その他に多い別府(別符)と同じく追加開墾地のことである。その地が本村の外郭にあっても産所のごとき特殊待遇は受けておらぬ。ただ右の三河の宿の記事は宿が枝郷の類を意味する一証としてありがたい。しかもこの三河の宿村は大和の夙村と同じく万歳の在所であるのは偶号ではなかろう。
    以上、引用終わり。

    穢多非人以外の起源を持つ部落が今もって存在していることに強い関心を持っています。

    返信
  17. 勝山城

    近くに住む者ですが
    神社の緑の台は餅投げの時に使うだけのものです…
    だいぶ古いので知らない土地の方は
    上がらない方が良いです…
    民家の写真も撮ってるのは
    防犯の為に撮るのはやめてほしいです。

    返信