前回に続き、石津町下山の探訪である。1970年、大正時代に作られた『本村締盟規約旨趣』という差別文書が発見され、下地区は騒然となった。
当時は部落である北組の住民と他の組の住民の交際は普通に行われていたという。ただし、結婚もあったが、大抵はうまくいかなかった、というような状態だったそうだ。
ここは下コミュニティーセンター。以前は下集会所で、下地区の住民はここに集まって、これからのことを話し合った。
「今では差別なんかしとらせんやろ?」
「しとらせんな。でも葬式は一緒にやっとらへんやないか」
「ならこれからは葬式も一緒にやろまい」
そのようなやりとりが交わされたという。
その結果、8組で構成された自治会は7組に再編され、かつての北組はそれぞれの組に取り込まれて完全に消滅した。
部落であった北組には独自の行事や習慣もあったが、それらも完全に消滅したことになる。
ここが唯願寺。
唯願寺は「干霄山大橋唯願寺」として絵図に描かれている。かつては「大橋道場」であったという。なお、津嶋神社は当時は「牛頭天皇」である。
800年の歴史を持つ由緒ある寺である。
本村締盟規約旨趣発見後、住民が融和を推進するために、一緒に長島温泉に旅行に行ったりした。それらは公費で補助され、それらが言わば上石津町での同和対策事業であったようだ。
最後に、森林の中にある墓地に行ってみた。
これは途中にあったお釈迦様。
墓地で目についたのはこの建物。これは火葬場だろうとひと目で分かった。
昭和59年に作られたこの下山火葬場だが、現在は市営の「かみいしづ斎場」が近くにあるので、今はもう使われていないという。もう用済みとなった手押しの霊柩車が放置されていた。
火葬場が出来る前は、土葬することが多かったという。
今は祭壇となっているこの場所にレンガ作りの火葬炉があったそうだが、よく燃えなかったという。
そこで、もっぱらここで野焼きしていた。屈曲した状態で火葬するのだが、熱で急に手足が伸びてしまうこともあったそうだ。
部落の起源は元々秀吉の朝鮮出兵の時に連れてこられた捕虜で、養老の多良村にいたのがここに移ってきたと地元では伝承されているそうだが、1926年の岐阜水平社の調査資料には「慶長7年頃、多良村へ高木三家の封せられし時城山村より召致し居住せしむ」と書かれている。
(触頭) 平尾御坊願証寺 不破郡垂井町 25の講をもつ
(触下) 七番土岐(時)講 広栄寺 唯願寺 了覚寺 明覚寺