日本人で最も多い名字である「佐藤」その起源には諸説あるが、実は根拠のないものが多い。根拠のない説をつぶしていくと、佐藤の起源として確証のあるものは1つに絞られるのだという。
『日本姓氏語源辞典』の著者である宮本洋一先生に、佐藤の起源の真相について解説していただいた。
佐藤の起源
左衛門尉藤原氏の短縮形『左藤』が転訛したとする説、下野国佐野荘(栃木県佐野市)を領した藤原氏によるとする説もあるが、佐渡守藤原氏の短縮形説が正しいようである
『日本家系・系図大事典』(奥富敬之、東京堂出版、2008)
資料を読んだ結果として同じく佐渡発祥とする結論となった。ただ、前掲書では時代と場所は書いていないので『日本姓氏語源辞典』では時代と場所が明確な伝承を二つ記述した。
『日本姓氏語源辞典』で記述した佐藤が佐渡からとする伝承
宮城県伊具郡丸森町小斎では新潟県佐渡市(旧:佐渡国)で1053年(天喜元年)に藤原氏が国司になって称したと伝える。
『ふるさと小斎の歴史 上(戦国時代末期より佐藤家五代易信まで)』(窪田文夫、1988)
『ふるさと小斎の歴史 下(佐藤家六代因信より戊辰戦争まで)』(窪田文夫、1990)
新潟県小千谷市本町では新潟県佐渡市に島根県西部(旧:石見国)から1504年(永正元年)に藤原氏が来住して称したと伝える。
『評伝佐藤雪山 越後和算学者の系譜』(五十嵐秀太郎、恒文社、1989)
備考
新潟県上越市三和区水科では新潟県佐渡市の出で江戸時代に長男が宮本姓、次男が井越姓、三男が左東姓を称したとの伝あり。同地では全てが佐藤姓だった新潟県上越市牧区宇津俣で江戸時代に対抗心から「左東」の表記として明治新姓時に役人の佐藤にするようにとの言葉から佐藤としたとする伝もあり。左東は母の夢で左に東から入った日光からと伝える。
『天と地を紡いでいきた人々 宇津俣郷史』(宇津俣郷史編集委員会編、宇津俣郷史編集委員会、1999)
東京都千代田区千代田が政庁の江戸幕府の幕臣に藤原氏(道長流)で下野国佐藤の郷からとの伝あり。佐藤の郷は位置不詳。佐野とすると栃木県佐野市が比定地。伝承からの推定では居住した時代は室町時代。
家傳に、先祖池澤四郎忠藤は那須安藝守資忠が四男なり。子孫下野國佐藤の鄕に住するにより、佐藤をもつて家號とすといふ。資忠以上の世系は舊家那須の譜に見えたり
『寛政重脩諸家譜 第8輯』(國民圖書、1923)
ウェブ上にある佐藤の起源説の例
名字由来net
【名字】佐藤
【名字の由来解説】
①中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原秀郷の子孫、左衛門尉公清が佐藤を称するに始まる。
②秀郷流藤原氏流は下野国佐野庄発祥。
③秀郷流藤原姓波多野氏流。
④岩代国信夫庄発祥の奥州藤原氏流。
⑤他、相馬氏流、那須氏流等関東に多い理由でもある。
⑥尾張氏流、紀伊氏流。などもある。「藤」は藤原の氏を表す。「佐」は下野国佐野庄、または左衛門尉(さえもんのじょう)の職名を表している。
家紋は源氏車や藤などがある。最終更新:2020/02/11 10:14:00 最終更新者:ミッツ
名字由来ネット
時代をまったく説明していないのがおもしろい。
森岡浩の人名・地名おもしろ雑学
佐藤の日
2020/03/11 13:20
3月10日は「佐藤の日」だそうである。もちろん、「さとう」のごろ合わせだ。それに因んで栃木県佐野市が町おこしの一環として「佐藤の会」を発足、林家ペーさん、パー子さんを招いた発足イベントに参加してきた。本来はこの日に盛大に記者発表を行うはずだったが、残念ながら新型コロナ肺炎の影響で記者を呼ぶことはできず動画での配信となった。ところで、なぜ「佐藤の会」を佐野市が設立するのだろうか。
佐藤のように下に藤がついて「~とう」「~どう」と読む名字は平安時代の貴族藤原氏の末裔であることが多い。藤原氏の分家の中級貴族たちは、藤原氏の一族であることを示しつつも、自らの家を表すものとして「~藤」という名字を名乗った。
その由来は大きく2つある。1つは斎宮頭となった藤原氏が名乗った「斎藤」のように職業と藤をつなげたもの。そしてもう1つは加賀の藤原氏が名乗った「加藤」のように、地名と藤原をつなげたものだ。
佐藤一族は平安時代中期に左衛門尉となった藤原公清が「佐藤」と名乗ったのが祖。しかし、左衛門尉なら「左藤」となるはずだ。それをあえて「佐」の字を使用して「佐藤」としたのには何か理由があるはずだ。その理由として、「佐渡守」に因むという職業由来説と、「佐野」に因む地名由来説の2つがある。
佐野市では佐野に因む地名由来説を採用して、「佐藤さんゆかりの地」として町おこしをはかるものだ。実際、佐藤一族には公清とは別の信夫佐藤氏という流れがある。
佐藤公清の一族と信夫佐藤氏の共通の祖は藤原秀郷で、その秀郷は佐野にいて唐沢山城を築いたとされる。だとすると佐藤一族全体の「佐」の由来を、藤原秀郷の佐野に求めるのは理にかなっているといえる。
森岡浩の人名・地名おもしろ雑学
佐藤が栃木県佐野市からとする伝承地を書いていないのがおもしろい。
別にある比率ではごくわずかな佐藤の起源
コリア系の左姓による佐藤姓。左を含む「佐」に「藤」を追加。大阪府大阪市平野区で1977年11月10日に帰化の記録あり。本姓は左。
『官報』
鹿児島県の奄美群島の一字姓である里姓から改姓。推定では1953年の日本復帰時。鹿児島県奄美市名瀬大字大熊の佐藤姓はもとは里姓だった。
『大熊誌』(大熊壮年団編、大熊壮年団、1964)
佐藤が佐(すけ)からとする「独自理論」
上記の起源説とは別の佐藤が佐(すけ)によるとの説がいつからあったのか調べると『知っていそうで知らない 日本人の名字なるほどオモシロ事典』(森岡浩、日本実業出版社、1998)からで下記の文章があった。
左衛門尉となった藤原氏や、下級官僚の『佐』(すけ)を世襲した藤原氏が名乗った佐藤氏
59ページ
この他、○○守(かみ)の下に、佐(すけ)という官職があり、これを世襲した藤原氏も佐藤を姓にしたといいます
114ページ
時代と場所を記していない「独自の姓氏学」。
他の文献には下記の文章がある。
このほか、当時朝廷の職位の上から二番目を『すけ』といい、『佐』という漢字をあてることがありました。この『佐』をつとめた藤原氏も『佐藤』を名字としたと考えられます
『ルーツがわかる名字の事典』(森岡浩、大月書店、2012)
168ページ
「考えられます」。考えているのは誰なのか。
以下を読むと文章に出る心理がわかる。
読む価値がない文献をすばやく見分けるもう一つの方法は、文体に注意することだ。受身の文章が多いのは、駄目である。『……といわれている』『……と考えられる』という類の文章だ。これらは、内容に関して責任を取りたくないという潜在願望の現れだからだ
『「超」整理法 3 タイムマネジメント』(野口悠紀雄、中央公論新社、2003)
結論
最後に再び記すと佐藤の起源に関して時代と場所が明確な伝承があるのは佐渡発祥だった。
『日本姓氏語源辞典』の佐藤のページもぜひお読みいただきたい。
佐藤は日本を代表する苗字ですが、部落ではほとんど見ません。解放同盟にもまずいないですね。分布が東北地方や新潟県など、部落が少ない地域に偏っているせいでしょうか。
鈴木は雑賀党との関係で高知県や和歌山県など西日本の一部の部落に分布しています。しかし西日本にはもともと鈴木姓があまり見られません。興味深いと思います。
佐藤姓は熊本県の阿蘇の部落の一部に分布していますが、熊本県も佐藤姓があまり見られない地域です。しかし大分県や宮崎県高千穂町は西日本では例外的に佐藤姓が多い。
宮本さんの記述では「大分県大分市上宗方では大分県由布市に東北地方から来た佐藤氏が1199年(正治元年)に堂を建立したと伝える」「大分県速見郡日出町大神では1276年(建治2年)に居住したとの伝あり」とのことですが、どのような理由で遠路はるばる東北から九州に佐藤氏が来住したのでしょうか。
佐渡起源ならなぜ大分県に多いのか、そこも宮本先生に伺いたいです。
>>どのような理由で遠路はるばる東北から九州に佐藤氏が来住したのでしょうか。
その時期ですと、吉川氏・相良氏・伊東氏の様に源頼朝に味方して西国の地を賜った
ことが考えられるかもしれませんね。
まずは東鑑くらい読んだら?
豊後の守護は大友氏
大友は相模の源氏
奥州佐藤氏が鎌倉から相模に所領を与えられているよ
大友氏下向の前後に豊後に土着したと考える。
平氏没官領とか元寇とか学校で習わなかったのかな?
まあ、大分以外だと徳島と名古屋・岐阜にも多いね。
部落関係だと群馬にもいたかな。
全九州水平社の佐藤三太郎は福岡県出身。
群馬の部落に佐藤姓ある?