曲輪クエスト(444) 熊谷市成沢・御正新田

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By 宮部 龍彦

菊池山哉はこう記している。

○静寛院原と大里の平野との崕(はげ)に介在する。重要街道筋ではない。農家十六戸。一村全部水野姓。

○白山神、半分朽ち果てた、哀れな姿をして居る。それでも虫歯に効くとて、遠近から参詣に来る。昔は曲輪で祭りをしたが、本村の氏子となってから、曲輪の人は、旧お頭水野氏に任かして、願なくなったと云。祭りは九月の日待ち。

○水野氏の当主は女で、昭和六年七十二歳の人であったが、斯様な事を言って、嘆いて居った。

子供の自分は裕福であった。 新田の坂田より、水野の方が古いと慥かに伝へて居る。どう言ふわけで、下谷(したやつ)(曲輪の名)の者だけが、賤められるか、其わけが分らないと、常々老人から聞かされて来た。新田の(下谷の人は、本村を新田と呼ぶ、御正新田村の事である。)の人は、後から来たものである。

と、そこで、新田の坂田氏を訪ふ。今は家屋敷だけ残って、古文書も、伝説もない。墓場を尋ねると、(坂田山静安寺内、同寺は坂田氏の所有寺と言ふ)数々の江戸期の宝篋印塔の並列する中に、突如として板碑が二枚、其の一枚には、明かに徳治二年が読める。

水野氏の墓場には、見るべきものは無かった。六ヶ敷い事になって来た。坂田氏が江戸時代名主なり、庄屋なりで、栄えた事は分かるが、徳治年間からある村ならば、豈大御正新田とは言ふまい。一方下谷曲輪も、水野氏の御先祖の墓は、寛文四年辰十二月)、守戸ともつかず(但し附近精査なされれば、断言は出来ず)長吏曲輪ではなし。若しも野守ならば、鎌倉へは上らない。この勝負は後日の調査に譲る。

○御正村は数ヶ村を合せた名であり、この辺古く大里郡の郡家の所在地と推せらるる村である。

菊池山哉の記述をもとに、条件の合う場所を探すと、確かに御正新田の近くに下谷ツという小字があり、水野が集まっている。

現地を訪れた。家々が離れており、明らかに密集地域ではない。農村の古村である。

田舎育ちの筆者でも、秘境感を感じてしまうほど田舎である。裏に回ると、舗装されていない長い道がある。

どこかに、菊池山哉が記した白山神社が残っていないものか、訪ね歩いた。

ここが墓地で、墓はほとんど水野姓だが、どれもそこそこ立派だ。

そこで、詳しい方から話を聞くことが出来た。まずここは御正新田ではなく「成沢」。確かに住所表記ではほぼ成沢で、下谷という小字も成沢にある。御正新田とは別の村という認識だそうだ。

そして、水野氏の「お頭」という家は確かにあるという。

その西側の藪の中に昔白山神社があったという。それも相当昔の話で、今は跡形もなくなっている。

水野はそれぞれが親戚というわけではない。伝えられるところによると、近くにある静簡院(浄閑寺)の雑用をしており、寺からまとめて同じ名字を授けられたのではないかということだ。

いわゆる寺の庭掃きで「あまり良い役回りではなかった」という。しかし、そういったことを知っているのは今では相当な高齢者だけで、若い人はまず知らないことである。

なお、ヤツというのは谷の水路のことで、村には小川がある。それが下谷ツという地名の由来で、それでは上谷ツがあるのかというと、分からないという。

菊池山哉は御正新田と記したが、実際は成沢のこの古村のことであろう。昭和初期に17戸だったという別の記録とよく合う。一方、別の記録にある御正新田30戸とは合わない。御正新田の別の村の特定は宿題として残された。

宮部 龍彦 について

ジャーナリスト、ソフトウェアアーキテクト。信州大学工学部卒。 同和行政を中心とする地方行政のタブー、人権ビジネス、個人情報保護などの規制利権を研究している。「ネットの電話帳」管理人。

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