1935年の記録では、唐津市西浜町に56戸の部落がある。山名伸作の福井県と佐賀県の同和地区現地研修記によれば1980年代にこの部落は30世帯程度で、同和地区指定はされなかった。
部落は海岸のすぐ近くにある。
本当に砂浜が間近で、松の防砂林がある。しかし、海沿いは空き家が多かった。
隣は富士見町という名前だが、その理由はすぐに分かった。砂浜からは富士山のような形の島が見える。これは高島という島で、島のほとんどの住民の名字が野崎であることが知られている。定期船が出ているので、時間があれば行きたかった。
砂浜でパノラマ撮影した。
海岸から2本目の道路は幹線道路になっている。通りがかりの住民に聞いてみると、この道路沿いは商店かよそからやってきた住民ばかりだそうだ。
年季の入った公民館がある。
そして、道路の反対側には町内の住居図と、特徴的な建物が。
最初は、新興宗教の建物か何かかと思ったが、ここで佐賀の部落には番神堂があるという法則を思い出した。
太鼓があって、中で会合が出来るようになっている。これは番神堂で間違いない。
こんな大きな番神堂もあるのかと感心した。
しかし、周辺の人に聞いてもよく分からないという。やはり表通りは新住民しかいないようなので、もうひとつ奥まった通りを歩いてみた。
海岸から3本目の道は細い路地になっている。この通りこそが本当の西浜町部落のメインストリートではないだろうか。
住民と鉢合わせたので、番神堂について聞いてみた。しかし、意外なことに住民はあの建物を「番神堂」や「三十番神」とは読んでおらず、「お寺」と呼んでいるという。しかし、宗派を聞いてみると日蓮宗。ということは、やっぱり番神堂だ。
そこが部落であったことを偲ばせるものはしっかりと残っているものの、その正確な意味を地元住民の誰しもが知っているというものではないようだ。
昭和6年に作られた『新版 唐津市街全図』の一部分ですが、現在より
松林が西浜町より内陸側にあったことが分かります。また西浜町の
唐津城・唐津市街地側のそばに「屠牛場」があったことも分かります。
ありがとうございます。素晴らしい資料です。やっぱり番神堂+屠場の法則を感じます。
西浜町は『新版 唐津市街全図』では整った形で描写されているが、それより
古いこの『唐津町精図』では、網目状な不整形に描かれている。現在ある形は
区画整理されて出来たものと思われます。なお右下から左上に真っすぐ伸びる
道が1箇所クランクとなっています。その下の番号の付されていない2筆は、
現在の佐賀銀行玄海寮が建つ場所です。そのクランクは城下町や宿場町に見ら
れる桝形や見附の様な役割があったかもしれません。
大変勉強になります。街道の宿場町に付属する穢多村のような役割が考えられますね。
『佐賀県遺跡地図』12図に「0699 西ノ浜刑場跡」がある。所在地は富士見町と
なっている。図上では市街地の表現がざっくりで、凡そ佐賀銀行寮(西旗町)の
あたりを示している。刑場の供養塔が、当初建てられた所から移動しているが
今も残っているとのこと。そこで調べてみると銀行寮から1ブロック北東側の
住宅地(南富士見町)に笠塔婆らしき物が見られた。恐らく刑場の供養塔であろう。
なお南富士見町は1998年に富士見町から分離・設置された様なので、遺跡地図
では元の富士見町のままになっていることが考えられる。