今回は新発田市の代表的な部落で、三昧と呼ばれた地域を訪れた。1928年の記録では18戸の部落とされる。ここは新潟県内でも珍しく、隣保館と教育集会所がセットで存在している。
まず、目についたのがこのサイケデリックな配色の案内板だ。隣保館の場所がよく分かる。
そして、これがその「新発田市隣保館」。看板に隣保館と大書してある。
同和施設であることがよく分かる。全国的には隣保館には隣保館という名前が付いていないことが多く、同和事業が終わってからは隣保館や解放会館のような施設のほとんどは名称が変えられた。しかし、ここについては、部落であることを周囲に知らしめようという政治的意図を感じる。
現地にあるのと、ネットに載せるのは違う!と屁理屈こねて発狂する人がいるが、現地に実在することの方がインパクトがあるし、むしろその地域が生活圏にある人にとってはネットよりも目にする確率が高いのではないだろうか。
そもそも、ここが同和施設であることは新発田市がネットで公開している。
隣保館が設置されたのは1997年で、かなり新しい。それでも、戦後の同和事業で作られた隣保館では新潟県初ということである。
大阪や京都といった同和事業が盛んだった地域では現在隣保館が次々と廃止され、自治体の同和事業もほとんど廃止されているのだが、その代わりあまり同和事業が盛んでなかった地域で解放同盟の活動が活発になっていると言われる。まさに新潟県がそのような状態で、同和事業の最後発組だったので終わらせるのも最後発ということだろうか。
隣保館の周囲は確かに周囲とは若干隔絶感を感じる。
この辺りは部落の境界近くと考えられるが、新しい家と臭突のある家がある。
こちらは教育集会所。隣保館よりも古く、1978年に設置された。
教育集会所の前には灯籠がある。もしかすると、神社の跡地なのかも知れない。灯籠には名前が掘ってあり、町田という名字が多いようだ。
むしろ教育集会所の方が部落の中心である。
昔の航空写真で見ると、小さな家が密集しているが、今もその名残りを留めている。
それにしても気になるのは、本来教育集会所の設置基準は30世帯からであり、隣保館は50世帯からである。
戦前の18世帯では基準に満たないので、その後世帯数が増えたことになるが、自然増によるものなのか、あるいは同和関係世帯の数え方を変えたのかはっきりとは分からない。
いずれにしても、ここが同和地区指定されたことは間違いない。
教育集会所の裏手には墓地が。
一見したところでは、様々な宗派の墓が混在している。
墓地の横には、道に面していない家があり、廃墟になっていた。
殺風景でない…とは言えない風景である。
隣保館という立派な箱物を作って、人権啓発を説くよりも、地域の美化運動等他にやるべきことがあったのでは。そう思わせる部落である。
こちらの教育集会所は地蔵堂でもある様です。
市の施設で、そういう宗教的施設を兼ねているって許されるのでしょうか。
私は許しますが…
差別をなくすために、差別があることをアピールするってなんだか変ですね。
私が同和指定地区に引っ越して暮らし始めれば私は被差別部落民になれるのか試してみたくなります。被差別部落民のライセンスをどのようにすれば取得できるのか知りたいです。屠畜業など職業が差別されるのであれば、同和地区に住み屠畜業に従事すれば被差別部落民に認定してもらえるのでしょうか?
この記事に貼り付けてある新発田市の冊子に進学率の記載があり、高校までの進学率は高いが大学までの進学率は低いとあります。その理由は被差別部落地区の人間は低所得者が多いため補助金で高校までは行けるが、補助の無くなれば大学に行かせる財力がないからとのこと。
被差別部落民でなくても低所得者はいます。では低所得者は被差別部落地区に引っ越せば被差別部落民となり優遇を受けることができるのでしょうか?土地が差別されてるのか、職業が差別されているのか、低所得者が差別されているのか?
現代社会で部落問題を引っ張るのは無理があるような気がします。
被差別部落民と認定してもらうには、新平民など階級が残っていた時代に生きていた祖父母の戸籍を引っ張り出して昔から被差別部落地区に住んでいたことや、穢多として暮らしていた証拠が必要だと考えます。そんなこと年々難しくなってきてるはずなので、放っておけば部落問題なんて無くなっていくのではないかと感じています。
>被差別部落民のライセンスをどのようにすれば取得できるのか
解放同盟や企業連など、同和団体のボスに金を積めば取得できます。金額はケースバイケースでしょう。
>低所得者は被差別部落地区に引っ越せば被差別部落民となり優遇を受けることができるのでしょうか
そのような場合もあります。個人的事情による貧窮者、要するに単なるダメ人間が、同和地区に転居すると「歴史的・社会的理由による差別待遇の犠牲者」に昇格するわけです。言い換えれば、自己の責任を社会の責任にロンダリングできるということです。
戸籍に新平民と記載されたのはごく少数だけで大半は平民と記載されていて区別はない
新潟県の被差別部落はなぜか新潟や長岡や燕三条周辺にはないんですよね。
ヒエラルキーの一番下は家を持たないかんじん・ほいととよばれたホームレスの賤民が占めていたからでしょうか。
千葉県柏市に、ひかり隣保館という老人ホームがあります。
取材していただけませんでしょうか。
柏の葉地区の外れにあり、そこまで古い街ではないはずなのですが、なぜ隣保館があるのか地元民もよくわからないのです。
それは民間の施設なので同和とは無関係だと思います。戦前は隣保館という言葉が社会福祉法人という意味でも使われました。
また、同和事業が始まる前は同和対策以外の目的で隣保館という名前を冠した福祉施設が設置されることがありました。
例えば大阪水上隣保館が隣保館という名前を冠した民間の社会福祉法人の代表的な例です。
新発田の出身です。もう50年も昔の昭和40年代にこの地区をも学区に含む、新発田市立猿橋小学校に通っていました。でも、被差別部落だの何だのの話は聞いたことがありませんでした。その後もずっとそうで、今回このウェブページを読んで初めて知った次第です。
貧乏な家の子はいました。今でも覚えている同級生の一人は、この地区の近くの新発田川に横木を渡して、その上に建てた家に住んでいました。「川の上」に居住していたわけです。でも、特別視はせずに普通に一緒に遊んでいたし、親同士の交流もあったように思います。ちなみに自分の両親は県庁勤めの地方公務員と中学教員でした。
でもまあ、いろいろと掘り起こして同和事業の対象としたのだろうな、と推察します。リンクされていた市の資料もざっと読みましたが、ほとんどリアリティを感じられませんでした。
「川の上の家」は撤去されて、もう何十年かになります。住んでた人間がどこへ行ったのか分かりません。同和事業にどれだけの金が投入されたのも知りませんが、少なくとも「あいつ」には無縁の話だったのだろうと想像します。
地元の方の貴重なお話ありがとうございます
自分は20年前に猿橋小学校に通ってましたが、六年の時、道徳の時間で地域の部落差別の話を聞かされました。
部落出身の生徒もいましたが、一家そろってガラが悪すぎてみんな恐れてましたね。
先生の話では、「昔清水園の庭師をしてた人ではないか」と自分の憶測を言ってました。
川の上の家なら自分も見た事あります。つい最近まであって、名物になってました。
新発田市でも、学校でどこが部落か教えていたのでしょうか?
そういえば天理教教祖の中山みきさんの生まれた場所も三昧田村でしたね。中山みきさんは浄土門の修行も若いうちになされていたようです。そういえば菅野さんの辺りとも遠からぬ関係でしたよね。天理教。天理教の信者さんの議員団の方って龍田大社さんの辺りの選挙によく顔出されてますね。奈良は結構相関関係がぐじゃぐじゃになってるところが多いですよね。三昧と第六天。サンマヤ?
フルーク映像㈱ 部落の心を伝えたいシリーズ
第19巻「差別を許さない自分づくり」~寝た子を起こして30年~
-長谷川サナエ -
この作品で住吉町の部落について語られている様です。2分弱の紹介動画あり。
気が付きませんでした。ご指摘ありがとうございます。
紹介動画にまさに探訪した場所が出てきますね!
「Hさんは兄で6代目になる自分の家には昔から伝わっている
十手があったという。」
首切りの村という伝承があるのですが、本当に警吏の役目があったのでしょうね。
新発田藩の刑場は中曽根町にあって、そちらでは色々伝承があるみたいです。
なお大阪市大の現地研修記にある、産廃の集積地が部落外に設けられたというのは新栄町かと。またその産廃業者の関連施設は同じ市内の早道場のはずれにありますね。
貴重な情報ありがとうございます
mappon.netの地域情報掲示板を活用していただくと大変ありがたく存じます
動画の差別戒名のくだり、「革」の次が「綻 (ほころぶ) 」となっており
この文字も良くない意味の文字と思われます。
解説ありがとうございます。差別戒名の墓石を探しているのですが、現地に行った時に気づかなかったのが不覚でした。
この隣保館の木札を見て思い出したのですが、10年位前、仕事で野田市七光台を歩いた時、児童施設として使われてた建物入口右に同じ様な木札が有り、薄っすら隣保館の文字が見えてました。七光台の部落探訪も御願いします。
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部落探訪(215)千葉県野田市谷吉
https://jigensha.info/2021/03/29/buraku-215/
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