学術・研究:部落探訪(142) 大阪府茨木市沢良宜浜3丁目

アバター By 鳥取ループ

筆者の手元に、あるレコードがある。「部落であることが~嫌~だった~」という歌い出しの曲を筆頭に、解放同盟の青年の熱い思いを歌った歌、解放保育の理論を歌った歌などが収録されている。レコードには大阪府茨木いばらき市にある部落解放同盟沢良宜さわらぎ支部の名前が書かれており、製作年は記載されていないが、おそらく1980年前後ではないかと考えられる。

そこで、今回の目的地には茨木市を選んだ。茨木市は北摂にある大阪市の衛星都市で、これといった名所もないのだが、中流階級には住みやすい街である。

茨木市には3つ部落があり、それぞれ「いのち・愛・ゆめセンター」という隣保館がある。また、市営住宅の所在地もなぜか部落に限られている。そのため、部落が同和地区指定されていることと、その位置が非常に分かり易くなっている。それを隠そうとしている様子は微塵も感じられない。

隣保館の隣に広い公園があるというのも、3つの同和地区で共通している。

隣保館に来たついでに、例の解放同盟の手配書のことを知っているか聞いてみたら、知っていた。ついでに、レコードに書かれた解放同盟支部の住所が隣保館の住所と同じになっていること等を話してみたが、解放同盟はもうここからは出たので、うちは解放同盟とは関係ないということだった。それはそうだろう。

「いのち・愛・ゆめセンター」 には分館もある。

ここが市営住宅の沢良宜住宅。同和対策として作られたが、現在は一般の市営住宅という扱いになっている。そこそこの規模の団地である。

ただ、過去の地図や航空写真を見ると、部落の範囲はあまり大きくなく、沢良宜と呼ばれる地域の南東の端の一角である。1935年の記録では65世帯、農業が主で、生活程度は極端に悪くなかったらしい。

解放同盟支部の名称等になっている「沢良宜」は本来部落の地名ではない。部落の場所は「南所」という名前であった。

この浄土真宗本願寺派安楽寺の辺りが本来の部落の場所である。これは茨木市のみならず大阪の衛星都市に共通することであるが、戦後間もない頃までは農村地帯で、村々の間には田畑が広がっていた。隣保館や市営住宅のある場所も昔は田んぼだ。

この辺りが本当に部落のど真ん中なのだが、とてもそのようには見えない。新しい戸建てと集合住宅がある。

分譲住宅があり、明らかによそから人が流入している。

ただ、道は狭いわけではないが所々に袋小路があり、古くからの農村であったことの名残がある。

10年前の行方不明者いついての張り紙が出ていた。「奥本佳照」という人なので、心当たりがある人は茨木警察署に連絡して欲しい。

さらに部落の南に進む。古くからの持ち家も貧しい感じは全く無く、ガレージ付きの豪邸も見られる。

沢良宜と言っても、部落の場所はむしろ「島」という集落に近い。この写真は茨木川で、住所表記で言えば左が沢良宜浜、右が島となる。

橋を渡って島の中も歩いてみた。

知らない人が見れば、むしろこちらの方が部落だと思ってしまうのではないだろうか。無論、島は「一般地区」である。

こちらは島にある浄土真宗大谷派光善寺。部落に本願寺派の寺があり、隣接する一般地区に浄土真宗の別の宗派の寺があるのは東大阪の部落との共通点だ。

ちなみに、屋根にブルーシートがかかっている家が見られるのは、昨年の台風21号と大阪北部地震によるものと考えられる。

隣接する一般地区に比べて、明らかに部落およびその周辺の方が住環境がよく、近年急速に発展しているように感じられた。

学術・研究:部落探訪(142) 大阪府茨木市沢良宜浜3丁目」への5件のフィードバック

  1. アバターひで

    いのち・愛・ゆめセンターは元々隣保館で、隣保館が建っているということ=被差別部落地区であるという理屈がよく分からなくなっています。
    茨木市には現住所で豊川と総持寺、そして今回紹介されている沢良宜にいのち・愛・ゆめセンターがあります。
    豊川は旧地名道祖本村で道祖本村内に皮多村があったので被差別部落だとされるのはネット上の情報から理解できます。しかし、沢良宜も総持寺も旧名は沢良宜浜村・総持寺村(隣も中ノ城村)と一見では独立した村で被差別部落とされる理由がよく分かりません。
    興味深いのは総持寺の近隣に戸伏村の枝郷(庄、中、橋の内、牟礼)や太田村内夙村、沢良宜の近隣に倍賀村の枝郷(穂積出作)があることです。茨木市には河原村もあります。枝郷や夙村、河原者の住む河原村は被差別部落地区だとネット上の知識で認識しておりますが、これらの村々の跡地には隣保館はありません。
    枝郷でも皮多村でも河原村でもない沢良宜浜村や総持寺村が被差別部落地区とされるのに、枝郷や夙村が被差別部落地区ではないというのは何なのか、理解に苦しみます。
    同和対策事業特別措置法で指定された地区と被差別部落地区とは違うということですか?そもそも被差別部落地区とは何をもって差別されていると認定するのかもよく分からなくなってきました。
    生活に困窮している地区かどうかで同和地区の指定というのがなされていたのでしょうか?それであれば何となく理解できます。しかし、昔の百姓(地主以外)の生活水準と被差別部落地区の住民の水準に大きな開きはあったのでしょうか?
    いずれにせよ、民俗学や歴史を知らずに現在の部落差別問題を理解することはできないと思いました。
    また、差別とは何かもよく分からなくなりました。考えると皇族と国民しか区別が無い中で差別をいうのもおかしな話ですね。識字率が低いとか就職差別とかもう無いんでしょう?元々日本の半数以上が農民でその農民の生活水準が決して高くなくて、そんな素性も分からない人が先祖だというのが国民の大半のはずなのに、差別をしているというのも何だか変な話ですね。

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    1. アバター鳥取ループ 投稿作成者

      昔の地図で見ると、沢良宜、道祖本、総持寺の部落の地名はそれぞれ「南所」「岡山」「北中城」です。沢良宜浜村、道祖本村、総持寺村は部落ではありません。部落はいずれも枝郷と考えられます。

      返信
  2. アバター某奈良県民

    淀川対岸の寝屋川市も興味深いですね。燈油村。
    しばらく訪れていませんが、地区内に第二京阪道路が通り、住居表示が実施されて
    部落の景色も幾分変わりましたでしょうか。

    旧国守町が指定地区で、その隣の旧小路町が未指定地区。
    かつては運動体の活動も激しかったようで(今も全国連がありますね・・・)
    小路の家々には「解放ビラお断り!」なんて張り紙が玄関先にあったものです。

    その近隣の枚方市や交野市はどうなんでしょうか。
    指定地区はなかったと思いますが、かつて交野市天野が原町2丁目の雑居ビルに
    運動体(?)の事務所があったように記憶しています。
    当時はあまり興味がなかったので、どの団体だったかは忘れてしまいましたが。

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  3. アバター某奈良県民

    そういえば、寝屋川市には黒原の夙もありますね。
    他の畿内の夙村同様、古い家は立派なものばかりです。

    点野も未指定ですね。夙だったか非人だったか失念してしまいましたが。
    ここは旧東海道沿いにあるのですが、畿内の多くの夙村や非人村と異なり、
    穢多村に近接していなかったと思います。
    (黒原は、守口市の梶北と近接だったと思います。)

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