全国部落調査には多数の未指定地区が掲載されている。いや、未指定と言うよりも、既に「解放」されていると考えられる部落も多い。もし部落差別を解消したいというのであれば、差別が解消された部落こそ研究され、手本とされるべきだが、現実にはそれはほとんどされて来なかったように思う。
今回訪れた平群町椿井の部落もおそらくそのような部落の1つ。1935年の記録では17戸96名の部落とされる。生活程度は「上」とあるので、少なくとも極端に貧しくはなかったらしい。
なお、1957年の資料では19戸100名とある。
部落は山の斜面の際にある。
公道上ではないが、壊れた車が放置されている。スクラップ業者のものだろうか?
道路は車がギリギリ入れるかどうか。あまり改善された様子はない。
古い家もあるが、見た目は周囲の村々と大差はない。各家に臭突があることから、下水道は整備されていないと考えられる。
これは浄土真宗西本願寺派のお寺。現在は檀家が13戸くらいだという。
これが集会所。同和対策ではなくて、自治会の施設のように見える。
住民に「椿井南方が部落だったと文献にあるんですが」と聞いてみると、「平群だと若井が有名やけど、ここは部落って言うても消えてるんじゃない? 道とかも昔から変わってへんよ」という返事だった。やはり同和事業は行われていないし、少なくとも今の住民からはもはや部落と認識されていないようだ。
奈良の部落というと、どうしても負のオーラを感じることが多いが、奈良にもここのような部落があることは、知っておくべきだろう。部落差別の原因は何かと言うと、やはりそれは「経済格差」に尽きると思う。社会的・政治的な要因があるとすれば、その最大のものは戦後の同和事業であって、それがなければ経済格差のない地域を人々は部落と見なすだろうか?
何があぶないのかよく分からない看板があった。
さらっと書いておられますが、「もし部落差別を解消したいというのであれば、差別が解消された部落こそ研究され、手本とされるべきだが、現実にはそれはほとんどされて来なかったように思う」というのは極めて重要な指摘ですね。
現実には「部落差別は今なお深刻である」という結論を先に決めた上で、その結論に都合のいい事例を血まなこで集めてきたのが解放同盟です(その一端が『全国のあいつぐ差別事件』ですが、よく読むと「寒風台小学校事件」など、差別にこじつけるには苦しい案件が多数含まれています)。なぜかといえば、そうしないと行政や企業などからカネが貰えないからです。差別が解消された部落をいくら研究しても儲けになりません。
その意味で示現舎の活動は画期的だと思います。この「部落探訪」シリーズが解放同盟に敵視されているのも、かれらにとって不都合な真実を暴いているからです。
今後も真の部落解放のために闘ってください。
不都合な真実と言えば、部落差別の政治起源説が否定されるようになってから久しいですが、そもそも部落差別が近世以前の賎民に由来するという説も違うのではないかと思っています。
穢多は実は利権を持っていたので江戸時代は豊かだったのが、明治維新で利権を失って困窮したと言われますが、いちばん利権を失ったのは武士階級だと思いますし、今、差別されている安定した職につけないと訴えている人々がとても穢多の血統にある人々とは思えません。差別されたから困窮したのではなくて、単に他国でも見られるような貧困の階層化が続いているだけではないかと思います。
穢多から取り上げた権利を困窮していた下級武士の次男三男に充がったのでは?
近代皮革産業の発展には西村勝三、陸奥宗光、丸山芳介ら士族出身者が大きく関わっています。
弾左衛門の皮革会社が倒産する一方で大塚製靴の創業者のように士族出身の製靴業者が台頭してきます。
明治政府が困窮士族に仕事を充がうために弾左衛門ら穢多の皮革業者を潰しにかかったのではないかとも。
http://blog.livedoor.jp/ahonokouji/archives/51878908.html
西村勝三は上級武士の出身であった。祖父と父は、槍の師範で、父は、佐倉藩の分家の佐野藩の家老であった。26歳のときに商人となる。伊勢勝銃砲店を開き、銃砲ばかりでなく、ピストルの革袋も扱った。大村益次郎から軍靴の注文を受け、明治3年(1870)3月15日、東京の築地入船町(現在の中央区築地1丁目1番地)に日本最初の洋式製靴工場「伊勢勝造靴場」を開いた。しかし、洋式皮革加工法がなく、靴の材料の革は外国から買っていた。勝三は明治3年10月に製革工場をたて、明治5年になってようやく、軍靴用の甲革の製造に成功した。
最後の佐倉藩主である堀田正倫は資金を出して、下級武士の子弟に職を与えるための「相済社」という組織をつくらせ、藩校成徳書院の隣りの「演武場」をつくりかえて工場にし、武士の子弟に靴づくりを教えることにした。勝三は、伊勢勝造靴場から3人の指導者を送った。靴工はおよそ50人で、1年間で1万3千5百足を作ったといわれている。この中の1人が、後に日本人としてはじめて明治天皇の靴をつくり、宮内省御用達の看板をかかげた大塚製靴の創始者大塚岩次郎である。
明治22年には、靴の材料の革をすべて日本で作ることに成功した。日清戦争で大量の軍靴が必要になり、勝三は大きな利益をあげた。そして明治31年には「合資会社桜組」をつくる。35年には、桜組などの5つの靴メーカーが合同して「日本製靴株式会社」を、翌年の4月1日には「日本皮革株式会社」を発足させた。
勝三は、さまざまな事業に手をだしたが、特に、製靴業、製革業、耐火煉瓦の製造という3つの事業で大成功をおさめ、日本の近代産業の祖といわれている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00060058&TYPE=HTML_FILE&TRUE_TYPE=IMAGE_FILE&POS=1
陸奥伯の警抜な意見に同意するものは少くなかった、何分当時、和歌山藩は他藩に率先して徴兵制度を施行し独逸兵式を採用する位に進んで居ったものであるから、直に之を行うことになった、陸奥宗光氏は早速、独逸人ケンベル氏等を連れて来て和歌山市本町一丁目に「鞣革靴練習所」を設けて、之を教えしめた。製革事業といえば賤しい仕事のように思わるるが其の当時の有様は全く正反対である之れを習ったのは藩の次男三男所謂部屋住の連中で軈て来るべき「刀より算盤へ」の移り行く時代の準備として之れを習ったのである当時面白いのは製革練習所の入口に藩士の刀掛袴掛がズーッと設けられて居た事で「身共」ナンテ挨拶の厳めしい連中が、殆んど賤業視した製革事業を熱心に学び、そして帰りには、又両刀を帯して帰るような有様であった。目下和歌山市の製革界に名ある九鬼千代治氏の如き実に第二期生であったのである。其際には、彼の西村勝三氏なども和歌山へ来て学ばれたのである、当時の勢いを以てすれば、和歌山の製革事業は甚だ盛んであらねばならぬのであった。然るに夫れ等の人々は大阪、東京へと出て行った。
そうなんだよ
農奴の小作農は奴隷だからな
解放同盟がやっていることを人にたとえて言えば、とっくに回復した病人が傷病手当金の不正受給を狙って「いや、俺はまだまだ病気で働けないんだ。こんなに辛いんだ」と仮病を使っているようなものです。
解放同盟奈良県連の「ポルシェ中川」さんがまさにその通りのことをやっていましたが、解放同盟員の行為の中はほんの氷山の一角でしょう。
×解放同盟員の行為の中は
○解放同盟員の行為の中では
地元民です。
椿井に関しては私も未指定じゃないかと思ってました。住民の方々も昔から住んでいる方が多いのでそういう意味では「純粋」だと思います。
平群は他の大字でも新興住宅地以外は大体こんな風景ですよ。
若井だけが異常です。あそこだけは本当にガラが悪いと思います。
実は若井も探訪しました。少し先にはなりますが、レポートいたします。
他の方も言及されていますが「もし部落差別を解消したいというのであれば、差別が解消された部落こそ研究され、手本とされるべきだが、現実にはそれはほとんどされて来なかったように思う。」という文章は正鵠を射ていると思います。
我々が先進地視察に行くところといえば、全国的に珍しい事業をしているところや隣保館を新しく立て直したところ、リバティおおさかや水平社博物館といった定番の施設等です。解放を求めると言いながら、実際に解放されたところに行くことはありません。
示現舎におかれましては、もっともっと解放された地区をレポートしていただいて多くの人たちの目を覚まさせて欲しいものです。
すみませんが、寒風台小学校事件とはどのような事件だったのでしょう?
Googleのサジェストにも寒風台小学校と打つと「差別」と出ますがそれらしい記事がなかったので…
平たく言うと、千葉県の公立小学校で解放同盟員が講演をしようとしたら、校長から「うちは部落解放運動をするわけではないので、学校の教師と生徒に関する話をしてほしい」と注文をつけられ、反撥した同盟員が無理やり部落問題に関する講演を強行した上、解放同盟に言いつけて校長を吊し上げた事件です。
解放同盟の立場からの説明は、これです。
https://web.archive.org/web/20040220130436/http://members.at.infoseek.co.jp:80/trotzdem/20.htm
解放同盟が強引に差別だと言い張っている事件で「本庄自衛隊差別事件」というのもあります。
https://ja.yourpedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A%E5%B7%AE%E5%88%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6
なお、この事件で有罪判決を受けた男性は確か母親が部落出身というだけで、当人の父親も、当人の出身地も、事件当時の住所も部落ではありませんでした。ですから、部落差別に基づく事件だという主張はますます無理があるわけです。
高校(浄土真宗系)時代のクラスメイトが平群町若井の寺の息子でした。当時は特に気にはしてませんでしたが今思えば穢多寺だったのかと思います。普通の子でしたが金回りがよく学校(西本願寺のすぐ隣)まで座席指定の近鉄特急で通学していました。
いつも興味深く拝見しています。
椿井南方は、もう少し南、国道168号の椿井橋を南にわたったすぐの東側、
国道168号と竜田川の間のあたりではないでしょうか。
そのエリアに住んでいた人と知り合いでしたが、親が浅川清氏の選挙参謀を
していたと言っていました。
また、生駒市小平尾南でよく見られる苗字の方も住んでいました。
葬儀屋もありますね。
実は今日まで奈良に居まして、気になったのでその場所に行ってきました。明治時代の地図で調べたらそこは「橋本」という集落です。
現地で聞き込みしたところ、そこは部落ではなく、やはり椿井南方はブログの本文にある場所で間違いありません。
ただ、周辺では「椿井南垣内(つばいみなみがいと)」と呼ばれているそうです。
若井から分かれた村と言われていて、確かに被差別部落とされ昔は近くの神社の氏子にも入っていなかったそうです。
事業も行われず、運動も組織されず、寝た子を起こすなという考えで今まで来ていて、部落だったことは周辺では知られているものの、現在は神社の氏子にも入っていて地域の実態としては差別されていないそうです。
私の根拠の薄い書き込みのためご足労をおかけしたようで失礼いたしました。
なるほど、承知しました。
コメントした場所は、川沿いであることや、部落にルーツを持つ人が住んでいたことから(その人が小平尾南にだけよくある苗字で、その一族と血縁関係があることは確かです。下)、そこが椿井南方だと思っていました。
これからも部落探訪を楽しみにしています。
改めて深く調査する機会が出来たので、再探訪してよかったと思っています。
竜田川の川沿いは部落どころか、豪邸が並んでいました。古くからの地主の家だそうです。
ただ、「この並びにも部落の家がある」というようなことも聞いています。
多くの方々は部落差別の表層しか見ようとしません。経済格差は今でもあります。それは、人間が「お釈迦様のような眼がない」ようにすべてを見通せません。だから、目に見える表層の物に終始せざる負えない点があります。私は差別の根源の一番のところは①識盲(文字が読めないこと)と②妬みを逸らす政策、③そこから生まれるイジメです。①については明治政府か西欧列強に負けじと全国民に対し、教育の充実を図りました。しかし、言葉は母、父、兄弟から学ぶように識盲の家族から学び子供と士族、華族(十二分に教育、躾をされた)家族に学ぶと3歳までの語学能力に大きな差が生まれます。これは部落地域で教育の考え方の差があるように、その地域の子供の能力差を生んでいます。しかし、一律ではありますが、小学生から学校教育が始まります。これを他国に転じれば、最初の男子、女子で考えるなら、女子の教育を疎む国はそれだけ人材を捨てていることとなります。明治150年と考えると女子教育に力を入れようと明治政府の気まぐれには感謝せざる負えません。よくテレビ局で江戸時代の江戸庶民の識字率は高いと言います。その通りですが、江戸以外の庶民の識字率はどうかは述べていません。江戸庶民が全国の10%と考えると残りの90%の識字率を調査しないのはテレビに阿っているとしか思えません。②について、例えば、インド、パキスタンを考えれば、そこにイギリスの影があるのに両国民の感情は互いを憎しになっています。これを日本の地域内で行ったのが部落で、明治政府以降はそれを在日外国人地域との抗争で生ませるように人間の性を利用しました。それを見る庶民は関わりたくない日本人の性から感情的心理を利用してきました。それは同じ部落の者同士や他地域の部落でも起こし、結果、優遇国民(?)への反抗運動を逸らしてきました。③について人間の性を利用している内容であるから、それを意識して対応する人間と人間の性を理解しない人間が生まれ、理解しない人間が差別をするなら、大人になり始めた小5-高1までに陰湿なイジメをする人間を生ませる要因と考えています。世間は「イジメはいけません」と言うが、過去、何故、イジメが生まれるかの議論をしようとしません。イジメる側の人間は相手の欠点を責めるのが自身の生きがいと感じている点があります。丁度、シャチがアザラシを玩具にして殺すようなものです。虎、狼のように捕食の為に狩るのではないから、醜く映ります。
地域民ですが、住民に了承とられますか? 即刻YouTubeの動画を含めて削除してください。
洗脳から解かれてください
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~syamada/map_syamada/CityMap25k_syamada_map.html
上記リンク先に、戦前からの平群町の画像残っています。
部落として消えてるではなく、この地域にそのような歴史は
はありません。よくここまで適当なデマを流せると思います。
勝手に侵入してお墓の名前までわかる動画を残されてますが
のお墓は地域の古くからの地主ものです。
ブログの古びた家も、隣に大きな母屋が立っています。
車は、収集癖のある近所の車屋のものです。この方も地主で
あちらこちらの空き地に車をおいてます。
これが事実です。
少なくとも良心をお持ちであるならば、
このコメントも消さずに残しておいてください。
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