兵庫県には部落が多く、特に瀬戸内側には大きな部落が多い。今回紹介する南武庫之荘も大規模な部落である。
1935年の記録によれば597世帯、2649人の規模であったとされる。ただ、この部落については、賤民の部落というよりも、在日というイメージが強い。そして、それは単にイメージという訳ではなく、実際に在日が多い部落である。
この部落では、路駐はできなさそうだったので、1時間500円のこのコインパーキングから探訪を始めた。
この部落では廃墟はあまりないが、フェンスに囲まれた空き地がある。
そして、この部落を象徴するのがこれらの物件だ。改良住宅店舗に朝鮮総連と民団が入っているという部落は他にないだろう。
在日コリアンの団体は活発に活動している。
ここは韓国料理店やキムチ屋が多い。在日コリアンが多くなったのはかなり昔で、大正期からのことであるという。
戦後の同和事業では在日コリアンが対象から外され、部落民と在日コリアンの間に対立が生まれたというが、ここでは在日コリアンも改良住宅店舗に入っていることから、そうではなかったように見える。
番町と同じく、大きな団地が立ち並ぶ。
改良住宅には簡易保険積立金還元融資施設の文字が。これらの団地の建設にあたっては。同和事業以外の資金も使われたことが分かる。
ここが地域総合センター。つまりは隣保館。あまり同和を強調する掲示物がないのは、在日に配慮してのことであろうか。
しかし、この人権教育啓発促進協議会の建物には、同和問題の早期解決は国民の課題との看板があった。
国民の課題というのであれば、国民に対して包み隠さずに情報を提供すべきであろう。そして、本当に「国民」が部落差別の原因なのだろうか。今となっては、部落を恐れて、部落を特別扱いしているのは一般国民よりもむしろ、公務員や運動団体ではないだろうか。
ここが部落の寺。またもや赤と青の西本願寺のポスターが貼られていた。
萬照寺は古くからの寺。あくまで古くからの住民が檀家になっているように見えた。関西の部落によく見られる、在日コリアンや沖縄出身者が浄土真宗の檀徒になるということはあるのだろうか? 悪人や不信心者こそ、南無阿弥陀仏を唱えれば極楽浄土に行けるというのであれば、そういうことがあってもいいと思うのだが。
尼崎は労働者の街。「ガラが悪い」というと差別発言と言われるが、筆者はそうは思わない。地域にはそれぞれ特性があって、堅苦しい地域よりは「ガラが悪い」と言われるくらいの地域の方が居心地がいいと感じる人もいる。
元尼崎市民です。ボーイスカウトやってた頃、萬照寺が毎週日曜日の集会場でした。当時(1975年頃)は今のような団地ではなく平屋の住宅密集地で細い路地を自転車で通って通ったものです。寺の前には食料品兼酒店(立飲み可)があり「おでん」が売ってましたがなんとおでんはトンカツソースを刷毛で塗って食べるというおそらくここだけでは?と思われるようなものでした。
ググったらボーイスカウト尼崎第15団というのが出てきました。2011年に他の団に統合されてなくなってしまったみたいですね。
おでんにトンカツソースを塗る食べ方は初めて知りました。ちょっと家でやってみたいと思います。
3年前に、南武庫之荘に住んでいました。阪急電車の武庫之荘駅近くは、南側でも同和色は無いですよ。武庫川に近く名神高速の高架あたりから、同和地区があります。武庫川をまたいで、甲子園口駅方面に行きますと高級住宅街が広がっています。甲子園口方面の方が、堤防が高くなっています。
そうですね、私が行ったのはその辺りです。同和地区は武庫之荘の南西の一角ですね。
私は近隣住人です。
南武庫之荘が同和地区というのははじめて知りました。
武庫之荘は尼崎市の中でも、最も西側(神戸寄り)に位置しており、ガラの悪い尼崎市の中ではハイソな地域として、近隣住民から認識されています。
尼崎市民は兵庫県でありながら大阪人という意識が強いですが、武庫之荘の住民だけはそれを嫌う傾向があります。
故・桂米朝師匠が生前住んでいたことで有名です。
そうですね、武庫之荘という名前自体にはむしろ高級なイメージがあります。しかし、南武庫之荘が同和というのは有名だと思ってました。
有名です殆どの人は知っています、守部新田として。ここに限らず同対法が成立したS44年前後に自治省の行政指導のもと改善地区改良住宅を進めるにあたって町名変更を行った、尼崎の改善地区は半数以上が町名変更しています。この守部新田は他の改善地区と大きく違うのは武庫川治水工事の為の連行者や対岸の川西航空機の徴用工が一家ごと住み着いた為朝鮮人が半数しめているのが特徴だが 38年頃からだいぶ地上の楽園に新潟から帰った。私の高校の時の友人も40年に3年だったが帰った。
尼崎は長らく革新市政が続いた時期があるので、同和行政に関しては近隣の市町村と少し異なっています。在日との混住も、ここに限らずあちこちの市営住宅・改良住宅にみられます。
そういった経緯もあり、いわゆる同和地区はあっても小学校などで「同和教育」を受けた記憶はありません。
革新というと、共産党でしょうか?
60~80年代に篠田、野草体制が続きましたが、共産党をベースに社会党が相乗りするという感じでしたね。同和行政に関しては主に篠田時代が中心で、調べてみるといろいろ興味深いかもしれません。
小学校によって(校長によって?)違うのではないでしょうか?
約50年前に塚口小学校に通学していましたが、道徳の時間にがっつり同和教育ありましたねぇ。
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といっても村の時代はさすがに知りませんが、元近隣住民です。
他地域にもそういう例はあると思いますが、もとの地名が「地区」として、近辺ではあまりにも有名だったため、糸山英太郎の様な金持ちや米朝師匠や大村崑など芸能人も住み、お屋敷街の印象もあった「武庫之荘」に、まとめてくっつけたのです。だから南武庫之荘は12丁目まであります。
昭和50年ごろは市バスが、大型車が通るとは考えられないような細い路地裏を、クネクネとめぐりながら走ってました。地区の皆さまへの配慮でしょうか。
随分、かつての感じは薄れましたが、いまもJR立花駅に近づくと雰囲気の濃い商店街になります。私は大好きです。
全国部落調査には守部新田ってありますね。それを「南武庫之荘」と、方角をつけた安直な名前にしたのは、確かに元の名前を嫌ってした感じがします。
なんか今回は味わい深いコメントも多いですね。尼崎の部落史も読み応えがありました。やはり他市町村とは一味違う同和行政が関係しているのでしょうか?
野根、奈半利あたりの高知東部行って欲しいですねー
武庫之荘・芦屋とくればぜひ西宮もお願いしたいものです
武庫之荘は、7丁目から上の数字のところがそうですね。あと、隣の水堂町4丁目も。他の水堂町は違ったかと。あと、よく知られてるのは、上ノ島と今北でしょうか。改良住宅と総合センターがあります。総合センターが隣保館みたいな感じです。
大変参考になる情報ありがとうございます。
この辺りは地名が変更されているので分かりにくくなりました。
南武庫之荘は7〜9丁目が上守部、10丁目以降が下守部(守部新田)と呼ばれます、これ以外の南武庫之荘は農地から住宅に改良された土地で、昔は一面田んぼだらけでした。
守部エリアに朝鮮人の方が多いのは図説尼崎の歴史を読まれると分かりやすいですね。
http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/chronicles/visual/04kindai/kindai4-c1.html
上ノ島は現在の町名地ではなく、上ノ島村の枝村であった高松村地区のみとなります、何度かの地名変更の後これが現在では南塚口町8丁目に地名変更されました、上ノ島地域総合センターがなぜ南塚口町8丁目に在るのか?今の若い方々は知らないでしょうね。
(現在では南塚口町8丁目に高松橋という橋の名前を残すのみですが、昔は分村問題などもあったようですね)
http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=上之島分村問題
今北に関しては現在の地名表記では存在せず、バス停や公園名などに残っている程度で、現在では西立花町2〜4丁目辺りとなります、これら以外の丁目は旧水堂町ですから今北とは別になります。
水堂町は旧水堂村の中心が2丁目辺りで、4丁目は水堂村の枝村である戌井村が地名変更された場所で昔は線路近くに皮を扱う工場などがありました。
1丁目は(立花町と共に)国鉄立花駅が出来る際に農地から住宅地へと改良された地域です(3丁目は更に後から住宅地へ改良)から新興住宅地区と言えるのかもしれません。
(地図で見ると水堂町の中で御盤上に道路が伸びるエリアと、旧道が残っているエリアとで区別できると思います)
そうそう前に取り上げられた伊丹市堀池に関してですが、「高座岩の雨乞い」と言う話の中に堀池村が出てきて興味深かったですね。
http://www.geocities.jp/yamauo1945/kouzaiwa.html
今昔マップで見ると戌井の集落の中心部は2丁目32~38辺りになりますね4丁目は旧武庫村です。
水堂村本村は1丁目17~30辺りみたいです。
東今北は現在も解同今北支部が非常に活発な地区ですね。
今年も尼崎市に対して行政闘争を行ってます。
ありがとうございます。全国部落調査にある水堂の部落は、水堂村の本村ではなく、枝村の方ですね。
確かに私の打ち間違いで、旧水堂村の中心は1丁目の西側です、失礼しました。
昔の地名や位置は尼崎市が公開されている、地図を参考にするのも良いですね。
http://www.city.amagasaki.hyogo.jp/op_data/1000918/index.html
この地図は有用ですね。再び尼崎の部落を探訪することがあれば、活用させていただきます。
とある隣保館で、尼崎の部落史を読んだところ、
守部新田は、水堂戌井部落の分かれ?(ニュアンスですみません)と載っていました。「新田」も水堂は対応した地名だとか。
尼崎は歴史ありそうな部落が多い印象です。高松や塚口宮ノ町、塩鍋や西長洲東村etc.
それぞれ探訪してみてください。
写真に写ってるお好み焼き「ぎゅんた」は美味い
はじめまして、守部の隣町で15年前まで29年間住んでました。生まれも育ちも守部の近くです。阪急電車の線路をから北側の地域に住んでました。今はどうか知りませんが、守部地区も校区になる小学校に通ってましたが、道徳の時間に朝鮮語の勉強がありました。朝鮮語を習ったり、歌を歌ったり、朝鮮料理を調理実習で作ったり、課外授業では朝鮮学校にも行きました。今ではかなりレアな経験だったと思います。いまだに習った朝鮮語の歌は歌えます。それだけ朝鮮とのかかわりが深い小学校だったんだと思います。その時はそれが普通だと思ってたので、大人になってから特殊なことをしていたと思い知らされました。国歌斉唱もしたことありません。親からはなるべく守部には行くなとも言われてました。今もありますが、私たちが呼んでた「阪神センター」という場所。現在マンダイが一階に入ってる見た目非常に汚い団地があります。そこは家賃待遇があり、5000円で住めると聞いたことがあります。でもとても外観からして汚いので住みたくもないですが。とにかく独特の雰囲気のある町でした。私たちの間では警察も介入しない町として名が通ってました。
初めまして。私は守部近く、阪急沿線の北側で生まれ育ちました。家族からは、「守部の人達は1人とトラブルになると集団で来るから怖いし危ない。関わるな」とよく言われていました。1階に万代が入っている「南武庫之荘改良住宅1号棟」の話は、私も聞いたことがあります。所謂”部落”の方のみ安く住めると。山手幹線より北側の守部(南武庫之荘8丁目付近)は新築の住宅が増え、新しい住民がいるので雰囲気は少し良くなりましたが、やはり山手幹線より南側はあまり雰囲気なども変わらず、地元の住民は近寄りがたい地域です。
守部で生まれ育ちました。
いまは東京で暮らしています。
部落という出生地がコンプレックスで奮起し、今の生活がありますが、今となっては愛すべき故郷です。小学校時代は無数にある団地で鬼ごっこをして遊んだものでした。
昔のお話ありがとうございます。
南武庫之荘中学は、尼崎最凶の中学でしたねぇ(´・ω・`)
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