結論から言えば、おそらくここは部落ではないだろう。そう思うなら、なぜ「曲輪クエスト」で取り上げるのか。読者の方は怪訝に思うかも知れない。
そもそも部落に厳密な定義などない。曲輪クエストで紹介してきた地域では、例えば新田や西成だって部落と言えるのか怪しい。
ここ、山面を探訪した理由は、『大谷派地方関係寺院及檀徒に関する調査』と『全国部落調査』に掲載されていたからである。両方の資料に戸数42の部落として掲載されている。
しかし、山面は『滋賀の部落』では明確に触れられていない。『滋賀の部落』第1輯には、江戸時代にエタ部落として身分的に固定化がなされて現在も差別が見られるものの同和対策の対象とされていない部落として、「湖東にはY地区」があると書かれている。そして、次のエピソードを紹介している。
たとえば、湖東のY地区へ、ある同和地区の人々が、電気工事に行ったところ、「おまえら、わしらと同じ部落のもんか。ほりや気楽でええ、ゆっくり一服してしゃべろうじゃないか」と歓待されたというのである。
Y地区の人たちは、精神的にも、まだ解放されていず、同和地区の仲間同志であるというゝとで、始めて心安らぐものを感じているのである。
山面は確かに湖東地域にあるが、このY地区が山面であるという確証は得られなかった。
とりあえず、この丘のふもとから探訪を始めた。
これは菅芝神社。これを見て早速違和感を感じた。滋賀の部落にはあまり神社がない。全くないということはないのだが、これほど立派な神社はない。
この神社には気合が入っている。いや、気合とかそういうレベルではなく、ござまで敷いてあるし、雨が降ったらどうするのだろうか。
この丘は古墳なのだが、神社の歴史は古く、おそらく古代まで遡る。神武天皇遙拝所まである。
神社から家々を見下ろす。見た目からしても、やっぱり部落ではなさそうな気がする。
ふもとに下りると、御神灯が。住民に聞いてみると、今日はたまたまお祭りの日で、いつも神社があのような状態になっているわけではないという。それはそうだろう。
「滋賀の部落を探訪していて、昔の大谷派の資料に山面の名前があった」と言うと、急に住民の顔がくもった。
「本願寺さんもそういう認識なんかいな…」
住民によると、まず大前提としてここは部落ではないという。山面は南側の新興住宅地と、北側の古くからの集落に分かれている。そして、古くからの集落もまた、本当に古くからあるものと比較的新しいものと2つあるという。
「部落と思われたとしたら、川沿いの家のことじゃないか」
確かに、日野川の支流の土手に沿って家が並んでいる場所があり、そこは神社のふもとの家々とは少し離れているように見える。
もともと山面という集落は神社のふもとの20戸くらいの集落のことであり、川沿いの家々はよそから移住してきた人のものだという。移住の時期ははっきりしないが、おそらく明治の初期くらいだろうという。
「あそこは昔は笹野と言っていて、いろんな所から人が集まってきていたようで、神社のふもとの村の家とは親戚関係にないですよ。ただ、20年くらい前にあそこも菅芝神社の氏子になって、祭りも一緒にやってます」
そう住民は話す。神社のふもとの集落と川沿いの集落は自治会も一緒だという。
ただ、今でも別の村という認識は少なからずあるようだ。また、川沿いの家々にはよその部落からの移住者がいたのではないかということも匂わせた。ただ、一貫して言われたのは「いやいや、だからここは部落じゃないって」ということだ。
『大谷派地方関係寺院及檀徒に関する調査』にあった佛厳寺。佛厳寺のある場所は明らかに神社のふもとの集落だ。関西の部落には多い浄土真宗大谷派のお寺だが、これが「穢寺」に該当するのかは微妙だ。神社のふもとの集落も川沿いの集落もこの寺の檀家が多いという。
川沿いの集落が歩いてみたが、特に違和感はない。自営業者が多いように感じるが、移住者であって古くから農地を持っていなかったのであれば自然なことだろう。
昔の航空写真で家の数を数えてみると、確かに川沿いには40前後の家がある。一方神社のふもとの家を加えると軽く60を超えてしまう。ということは、『大谷派地方関係寺院及檀徒に関する調査』も『全国部落調査』も川沿いの家のみを部落と認識してカウントしていた可能性が高い。
電話帳で住民の名字を調べてみたが、滋賀県の他の部落によく見られる名字が多いということもなかった。もっとも滋賀県では部落民と思われるのが嫌で改姓したケースが多いと言われるので、この手法で部落からの移住者の村かどうか判断することは難しいが。
ただ、この場所が歴史的な意味での部落に該当すると言えないことは確かだろう。『滋賀の部落』にあるように「江戸時代にエタ部落として身分的に固定化がなされ」たと判断することもできない。
集会所があるが、同和施設と感じさせるものはない。
ただ、気になったのは同和事業は行われてはいないもの、集会所があり、広い公園があり、明らかに何らかの改善事業は行われていることである。臭突のある家はなく、下水道が整備されている。
この石碑によれば昭和42年以降に農業改善事業が行われた。同和事業の時代よりも前のことである。
いわゆる「未指定地区」も大きく分けて2つのタイプがある。1つは部落であると認めつつ同和事業を拒否した地区。もう1つは、そもそも部落であることを認めなかった地区。
山面については、ここが部落ないし同和地区とは認めないものの、全国部落調査に掲載されていた以上、何らかの改善が必要な地域であると行政は認識していたのかも知れない。
『大和志』第5巻35ページに、近江蒲生郡の祭に関連して「山面村の穢多」と記されているようです。旧賤民が住んでいたのは間違いないのでは。
よく見つけられますね。大和志ということは享保時代になるのでしょうか。
とすると、かなり古くから山面に穢多が住んでいて、神社の麓の集落が部落という可能性もあるのでしょうか。
1983年に吉川弘文館から復刻された、大和国史会刊行の『大和志』です。山面村の旧穢多が、現代の山面の住民と連続しているかどうかは不明ですが。
ありがとうございます。しかし、享保時代に穢多がいたから部落になったとすれば、他の資料と地元の伝承と矛盾します。
近代以降の資料が指す部落は明らかに明治以降に形成されたと言われる川沿いの集落を指しています。
神社の麓の集落が部落だとすると、白山神社以外であそこまで立派な神社がある部落は見たことがありません。
もっと研究が必要なようです。
横からすみません。
上記「大和志」は記述にあるように「1983年に吉川弘文館から復刻された、大和国史会刊行の『大和志』」で江戸期間の「大和志料」ではありません。
該当記述は、「大和志」第5巻第4号(昭和13年4月発行)で、「高取藩風俗問状答(史料)」の写しで、昭和13年各号に分載されたものです。
この「風俗問状答」は文化文政期に調査のあったものだそうです。
以下引用
「近江蒲生郡苗村明神 九月八日神事三十三年目に大祭あり、山面村の穢多各参り甲冑を帯して出るといふ」
この記事の「甲冑云々」を見ると、菅芝神社の由緒記にある記事にもうなずけるものがあります。
以上、横から失礼いたしました。
すみません、大和志と大和志料を混同していました。
ちなみに、明治・大正期のこのような地図を見つけた方がいらっしゃいました。
文化文政期に「山面村の穢多各参り甲冑を帯して出るといふ」という記述があること、菅芝神社の由緒に「都にことがるごとに出兵した」という記述があること、笹野が別の村の地名として確かに存在する一方文化文政期の史料に山面村と明記されていること。
このことを総合すると、歴史的には山面こそが部落であった可能性が高い一方、大正期以降はなぜか笹野が部落と扱われているということになりますね。
月堂見聞集に「近江国蒲生郡綾戸村苗村明神の三三年に一度の神事に際して、穢多之者具足騎馬打物もたせ、其外は歩行甲冑旗を指、一行三十人余、穢多の事、当社降臨之節由緒有之由、穢多之人数凡三百人余、があった」と記される。
部落史研究の現在
http://wwwd.pikara.ne.jp/masah/kdk032.htm
※滋賀県竜王町苗村神社では33年に1回行われる祭りがある。その時に、氏子の中の部落のものが兜鎧に身を固めて行列に参加する。この部落は農業を中心とした集落で、豊かな集落である。苗村神社ができた時の創建の由緒があるから、つまりその部落が神様を連れてきたという由緒である。それでも彼らは差別を受けた。つまり結婚がないと思われる。私的な交流の場からたたれている。それが差別である。
部落史研究はそこまで到達した。苗村神社の行列が続いてきたのは、だれもが創建の由緒を動かしがたい事実として知っていたし、事実として認めていた。ここに部落差別の本質を見いだすことができるのではないかと考えている。
非常に興味深い記事です。
とりあえず、前回の33年大祭を記録したという本があったので、買ってみました。
電気工事って比叡山の山田さん部落では?
そこでも皮革を捨てないからと部落内穢多認定差別化は有りました
もっと文献を読みましょう
多摩クリスタルの白山神社の創建由来が高位だから部落では無いという
QeQの理屈みたいですな
恐れ入りますが、一部の人しか分からないようなものではなく、わかりやすいコメントをお願いします。
部落でもすぐに風土記稿でいう土人
草分けの農民に化けられる人や都市の土地を買い化けられた人も少なからずいたでしょう
小作人農奴は水平運動と共闘し平等でした
一部の人にしか解らないではなく武家が立てたが部落にあり部落が管理した神社がよくあります
貴方は解動以下ですか?
豊成神社や本田豊インタビュー、
嘘をつきましたね?はやりなさい
滅ぶなり移動するなり高位身分からの下げ渡しならば古墳も神社も変わりません
後から来たのが名字帯刀門構の庄屋が乗っ取りしたりします
小作人は農奴です
穢多も本百姓に米を貰えないと困るから土下座はしません
戦後農地解放の小作人農奴は穢多非人は全く相手にしていない
明治からの左翼運動以外
打桐豊成さんは知識は多少あるのかもしれないが、書いていることが独り善がりで意味不明です。
>豊成神社や本田豊インタビュー、
>嘘をつきましたね?はやりなさい
いろいろ推理してようやく意味がわかりました。「浜松市の豊成神社を探訪せよ。本田豊にインタビューをして『嘘をつきましたね?』と追及しなさい」と、言っているようです。嘘というのは恐らく、本田豊著『神奈川県の被差別部落』83-84頁における「(愛知県の部落では)どちらかといえば津島神社が多くみうけられる」という記述のことを指しているのでしょうか。打桐豊成さんの文章力のなさはちょっと異常です。
酔っ払って書いているからね
本田豊の嘘はいっぱいあるよ
お前に文章力云々を指摘される筋合いはない
お前相手に書いていない
自己言及のパラドックスだね。じゃあ「お前相手に書いてない」という場合の「お前」って誰? (^o^)
日本語わからないのですか?w
お前だからお前に決まっているじゃないかw