本州最南端の町、串本町には、和深の他にもう1つ部落がある。それが、今回訪れた西向部落である。
1943年の世帯数は137、1954年には164と記録されている。この部落は明らかに同和地区指定がされたと考えられる。
国道42号線から、日本の秘境・古座川の上流へと向かう道は、県道38号線と、県道227号線の2本があるが、西向はこの38号線の入り口、古座川の河口近くにある。38号線は西向の辺りでは2車線と広いが、西向を抜けると急に狭くなる。ちなみに、古座川の対岸にある227号線は狭い。過去の航空写真を見ると、1947年の時点で既に同じ場所に直線の道路があるので、同和対策だから広くなったというわけではなさそうだ。
ここは物置のある町営住宅。東日本大震災の被災者の受け入れ先にもなっていたという。
町営住宅の近くには遊具があり、草が生い茂った広場が。
回ってみると保育所だった。しかも、とても立派な保育所。しかし、少子化の影響のためか数年前に閉鎖された。
さらに歩くと、見覚えのあるニコイチ住宅が見えてきた。
奈良でも見かけた、ニコイチ住宅の脇に車が捨てられた風景。
清掃業者のゴミ収集車があったが、たまたまここに置いてあるだけで、部落内に清掃業者があるわけでもなさそう。
全般に道は整備されているものの、ところどころに路地の面影が残っている。
妙福寺は浄土真宗本願寺派のお寺。
これは住民会館。無骨な建物に味わいがある。
地区内にはいくつか津波避難場所の標識がある。やはり、海岸が近いので津波対策はこの地では重要な問題だ。
「タスカルタワー」という避難施設を見つけた。誰でも上がれるようになっている。
このタワーから部落を見下ろすことができる。
タワーが出来たのは平成18年3月と書かれている。東日本大震災が平成23年なので、それより前から津波に備えているということだ。しかし、10メートルをはるかに超えた東日本大震災の大津波を目にした後では、この高さでも心もとないかも知れない。
部落内には古い家や空き家もあるが、ここが紀伊半島の南の端付近ということを考えると、それほど寂れているようには感じられない。
もちろん、隣保館もある。
いつも拝見しております。部落探訪は素晴らしいですね。最終的に一冊にまとめて頂きたい内容だと思います。ま~書籍の時代でも無いですが。ところで、前から気になっている事があります。実はニコイチについてなのですが、以前同和は大家族で建築費が安いので行政がニコイチの改良住宅を採用したと聞いてますが今から思うと、ニコイチがある・・・ここは同和地区なんだと分かってしまうような・・・本末転倒な感じではないでしょうか?私が知っている地区にもニコイチ群があり、近くに白山神社と同和集会場があります。不思議です。
ありがとうございます。
ニコイチが採用されたのは、単に偶然ではないかと思います。
あの白いコンクリートの住宅は昭和40~50年台に流行った形式で、民間の住宅にもありました。
その時期がちょうど同和対策の改良住宅の建設ラッシュと重なったために、同和地区にニコイチが立ち並んだものと考えます。
不幸なことに、あの形式の住宅は一時の流行で終わり、白い壁は汚れやひび割れが目立ってしまうという事も当時の人はあまり予想してなかったのでしょう。
いつもありがとうございます
ここは中上健次の母親の出身地ですか?
そのように言われているようですね。しかし、残念ながら私は詳細は分かりません。
私自身は、西向の生まれではありませんが、出身地区はごく近くで、写真が撮影された地域には馴染みがあり、とても懐かしく拝見しました。
私が幼い頃、今から30〜40年前には、隣保館のそばに児童公園があり(今は確か駐車場になっているはず)、私も母にその公園に連れられ、地区の子どもたちと遊んだものでした。同和対策事業のおかげか、その児童公園は当時遊具が充実していて、地区外の友人にとっても良い遊び場でありました。
私が生まれた頃には、地区の街並みも整備されていましたし、目に見える形での差別は無くなっていました。小学校高学年になるまで、親が「この地区は同和地区なんだ」と私に教えることはありませんでしたが、ただ、それでも幼心に、この地区は何だか雰囲気は違うな、と感じていました。
まず、自分の家や祖父母の家周辺の集落と比べると、古い汚い家が皆無で、改善住宅か、新しめの大きい家が立ち並んでいました。小学校低学年の頃、児童公園からの帰宅途中の道すがら、母親に「〇〇(地区の名前)は、なんだか他の地域と雰囲気が全然違うね」と言ったら、母親がとても慌てて私を止めたのも、今となっては懐かしい思い出です。
その他、私が通っていた西向小学校にはその地区出身の子どもだけを対象にした子ども会なるものがあって、当時私を含めた地区外の子どもたちは羨ましがった記憶もあります。
その他、その地区の友人を祖父母の家に連れて行って一緒に遊ぼうとした際に、祖母があまり良い顔をしなかったことなど、おぼろげながら、なんとなく「この地区は特別なんだ」と感じていました。
今は和歌山南部全般、過疎化が凄まじいスピードで進行し、地域コミュニティの維持そのものが厳しい状況で、その中で部落というものも自然に消滅しつつあるのだと思います。
余談ですが、西向全体ではなく、西向の中の特定のある地区のみが同和地区です。(本当に瑣末などうでも良いことですが)
同和地区は県道38号線の東側、串本町古座分庁舎の南側の区域と想像してます。
やっぱり雰囲気が違いますね。同和事業時代はさらに違和感があったと思います。
和歌山県に限らず、同和地区は特に若い人が減っていると感じます。都市部でも閉鎖された同和保育所をよく見かけました。
一方老人施設は逆に需要を増していると感じます。
和歌山南部はとにかく過疎化の進行が凄まじく、全体的に若者も減っているので、その地区が特別に若者が減っているという印象はないですね。その辺り、都市部とはまた状況が違うのかもしれません。
戦前生まれの私の親族曰く、昭和30年代くらいまでは、地区は極貧の極みで、街並みもとにかく汚かったということでした。その街並みが昭和40年代以降、一新され、今では当時の面影すらなく、住民の生活環境の改善という観点で、国の事業は成功したと言えるのでしょう。
地区の位置は大体ご指摘の通りです。ただ、最も海側の地域は違うようです。写真でいうと、郵貯ATMが写った写真のあたりです。元々その辺りには郵便局があったのですが、特に田舎において、郵便局はその地域の名士、旧家が担うことが多かったようですね。
貴重な情報ありがとうございます。おそらく海側の2ブロックは地区外ということですね。
確かにその辺りは庭や畑がある家が多く、住宅が密集していた形跡がありません。
https://youtu.be/7ekGm6p5JU4
10:18〜の部分と、19:40〜の部分が
まさにこの地区ですね。
改良事業時の当時の様子がカラー動画で残っているとは驚きました。
探訪したのは偶然ですが、記録があったのは幸いですね