川崎市下作延は、高津区役所の近くにあり、周囲には市税事務所や年金事務所や県税事務所がある。最寄り駅は東急線の溝の口駅か、JRの武蔵溝ノ口駅だ。
1934年の時点で世帯数は31、人口は155の部落であったのだが、周辺はかなり都市化が進んでいる。
下作延は北部に墓地と火葬場があり、南部には高津区役所があるのだが、部落は南部の一角である。町内会で言えば「下作延第二町内会」の辺りのようである。
予想通り、新しい住宅や集合住宅があり、既に融和ないし解放済みのようである。
奥へと進んでいくと、古くからの住民のものと思われる家がある。
さらに進むと階段があり、神社にたどり着いた。白山神社かと思ったが、「辰の谷稲荷社」と書かれている。由来や、部落との関係はよく分からない。
細い路地や袋小路があるのが部落の名残かとは思うが、周囲にあるのはほとんどが賃貸住宅かマンション、建売住宅だ。
それでも、ここに古くからの集落が存在したことを思わせるのがこの墓地だ。墓石から、古くからの住民には、尼野、中村、中田という家が多いことが分かった。
確かに、稲荷社の周辺には尼野、中村という表札の大きな家が何軒かあった。昔はしがない農村だったと思うが、都市化の恩恵を受けて古くからの住民は裕福になったと考えられる。
しかし、川崎市からは同和対策のためとして部落解放同盟と人権連と同和会に補助金が支出されている現実もある。そこで、住民の1人に「部落解放同盟川崎支部ってここにありませんか?」と聞いたら、「は? 知らん」と言われてしまった。
>川崎市からは同和対策のためとして部落解放同盟と人権連と同和会に補助金が支出されている現実もある。
部落差別は「消滅」しているのに、なぜ「同和対策の補助金」になるのだろうか?
橋下元市長時には、同和対策費を大幅削減し、リバティ大阪の運営が厳しくなるとか何とかの話題があったように記憶しています。
奈良県御所市の水平社会館も不要の長物であり、老人介護の施設にでも改装したらいいと思う。
川崎市の補助金は、その具体的な使途を市がほとんど開示しないので、謎が多いです。
実質的には同和地区住民のためではなくて、一部の政治的団体の資金源になっているでしょう。
窪倉・尼野・中村辺りが主流ですね。他に溜なんて姓も墓地にあったと思います。
窪倉・尼野は小机鳥山にも入植してるようです。
人名力の日本姓氏語源辞典によれば、
窪倉と久保倉は異形にして同一との事で(小机の墓地でも確認できました)、
これは共に神奈川の稀少姓ですが、久保倉の方の分布が非常に興味深いです。
これも分家・脱賤の類だったら面白いんですけどね。
すごい偶然。
会社内で窃盗事案がありました。
(2ヵ月前後にわたって)
その犯人の住所がまさにこの地区です。
(私も被害者の一人で被害総額52万9千円)
頭では偶然とわかっていても、
どうしても感情的に納得できない部分があります。
(犯行発覚後の当人の開き直り態度がヒドかったのもありますが)
被害者の立場になれば大抵の人はそういった思いを抱くのではないでしょうか。
部落の人間が本当に差別を無くしたいと思っているなら、
国家の優遇に甘えず自発的に解消すべきですよね。
2018年現在でも差別を根拠に優遇を優先する思想なんてチンピラそのものじゃないですか。
ネット拡散の未来には「加速」しかありません。
この「誰とく?」状況にすら気づけないほど痛々しい人々なのでしょうか。。
残念でならない。
場所を間違えていませんか?
全國部落調査 (1936) では、高津町下作辺の 「谷戸」 部落となっています。
「谷戸」 は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E6%88%B8 に示される通り、
「関東の丘陵地・台地の縁辺部が長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形」 の一般名詞
でもある訳ですが、該当する地形は下作延1丁目と2丁目の2箇所あります。
探訪された場所は、辰の谷稲荷社が見下ろす2丁目側と思われますが、東急田園都市線を挟んだ
東側の1丁目にもう1箇所があります。
2丁目の谷戸は奥の行き止まりまで自家用車が通行できる道になっていますが、
1丁目の谷戸は途中でL字型に曲がり車の通れない路地に20件ほど家が並んでいます。
奥の行き止まりが階段になっていて、登ると丘の上に、養護老人ホーム、中部児童相談所を始め
として末長地区福祉活動ホームというのも存在しています。また、路地に入る直前の駐車場内に
豊川稲荷社が建立されています。
車の入れない (=消防車も入れない) 谷底に、階段を降りて福祉活動を実施するという状況があっ
たのではないかと思われます。
奇妙なことに、ストリートビューで見ると、2丁目の谷戸の入り口、丘を占拠する大きなマンション
の崖下に、神奈川県川崎治水事務所が立てた 「下作延B地区急傾斜地崩落危険区域」 という案内
板があり、谷周辺が改良できない地形であることが判るのですが、じゃ、1丁目の谷戸がA地区な
のかというと、なんと 「辰の谷地区急傾斜地崩落危険区域」 と表示されています。
辰の谷地区とは、2丁目の辰の谷稲荷の周辺を越えて広がっていたのか? あるいはB地区表記は、
後から住民の声を聞いて付けたのか? 謎です。 (B地区は部落地区の略だと言われかねない w)
ただ、私が関心のを持ったのはそういった話ではなく、同和対策事業費が土地改良できない地域
の住民に、移転費用でなしに住宅改良費としてのみ交付されたのではないか、という疑問です。
逆に、80年代の土地バブルで、移転に使えたはずの金が住宅建て替えに使われてしまったのであ
れば、やはり歴史の皮肉なのかもしれません。
谷底を見下ろす崖に建設された大型マンションも、昔は黒沢明の天国と地獄の様相だったのかも
しれませんが、崩落危険区域に指定されてしまっては、もう大きく資産価値を損ねていることで
しょう。
1丁目である可能性は考えました。しかし、神権連の機関紙の記述によれば明らかに2丁目です。一応行政対応団体ですし、川崎市に支部もあるので、神権連の機関紙の記述が全く出鱈目というのは考えにくいと思います。川崎市は同和地区指定をしていないので、どのような施設があるかというのは、あまり参考にならないでしょう。
なるほど。 被差別部落より更に状態の悪い地区が傍にあっても歴史的経緯は異なるということですか。
社会福祉予算が交渉団体を問わず行政指定で個別に支出されるということがあるだろうか。 社会福祉の対象としては認知されていたのは判るけれども。
治水事務所の危険区域指定措置は、でたらめな宅地開発が行われた後でしょうから、結局、川崎市が無策なまま建築許可を出して、民意のままになったということか。
九州・中国地方の洪水・崩落被害、北海道地震での崩落被害があって、次の大地震で多摩丘陵一帯の鉄道沿線の開発宅地が被害に遇うのではないかと危惧しました。
こちらで紹介のある政府所管の地図・空中写真閲覽サービスで確認したら、1丁目、2丁目の谷戸は、1947年当時は共に農地でした。(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=694440&isDetail=true)
1962年には東急電鉄はまだ未設置ですが全て宅地化されているようです。(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=430165&isDetail=true)
歴史的な被差別部落住民は、殆ど現在の崩落危険区域からは離れて居住していたことが判ります。
谷戸に住居を取得した人々に被差別部落住民がいたのかは知りませんが、1962年当時の溝の口駅北口周辺の、狹小で密集した住宅地と比較して、住環境が劣悪には見えないですね。
ただ、「消防車の入れない」 住宅地が生れて、新たに崩落危険区域となってしまい、そこを被差別部落と考えたというのは、私自身が部落差別の幻想に染まっていたからではないかという気がします。 (不利益を受ける原因を部落差別に短絡させてしまう)
>現在の崩落危険区域からは離れて
上記は事実確認が足りませんでした。川崎市のハザードマップでは、地形から感じるより広範に指定されているようです。
http://www.city.kawasaki.jp/500/cmsfiles/contents/0000017/17971/takatu.pdf
下作延2丁目に土着の稀少姓が小机に流入してます。
ただ「何故ここなのか?」、「昔からここだったのか?」については、
正直良く分からないです。
ちなみにここは時宗、府中の称名寺の檀家だったと思います。
神奈川でも旧武蔵国の領域は、府中称名寺を菩提寺とする所が多いです。
多分、檀家にしてくれる寺が少なかったんじゃないかと思います。
旧相模国の領域は、確かに日蓮宗が多い様ですね。
高津区下作延2丁目、大山街道がJR南武線に交わるあたりに最近「同和対策推進協議会管理地」なる看板が出現。この記事で報告されている場所と近いので何か関連がありそうですね。
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この建物窪倉ハイツですよ
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