1919年の『民族と歴史』第2巻第1号に、茨城県の長谷川凸津という人物による「常陸新治郡地方の特殊民」という短い報告が載っている。この地方では旧幕時代、どの城下にも一端に部落があったと述べたうえで、石岡町について次のように書いている。
「同縣同郡石岡町(舊松平播磨守城下)の北端に柳町と稱する處あり。此處は一帶穢多の部落にして、今猶ほあり。」
石岡は松平播磨守の府中藩の城下町である。研究者の見立てでは、その北の端は今の石岡市府中にあたるという。そこをクエストしてみた。

報告の8年前、1911年に出た『大日本皮革及皮革製品業大鑑』には、新治郡石岡町の皮革製造販売が2軒、牛馬屠殺場が1軒載っている。皮と屠畜の仕事がこの町にあったことは確かである。なお、皮革業者の名字は背黒と田所、屠殺は背黒である。
ところが、1921年に茨城県がまとめた『地方改善ニ關スル調査』にも、1935年の『全国部落調査』にも、石岡町の名は出てこない。

名字を手がかりにするなら先ほどの背黒と田所、そして茨城県の古村に多い小松崎ということになるのだろう。ただ、府中には小松崎も背黒も比較的多い。これが全て穢多だったとは考えにくい。

小松崎が多いあたりを歩いてみたが、明らかに農村である。

木立の中に、まわりから切り離されたような細い道がある。

これは特定するのはかなり難しいのではないかと思っていたところ、何と奇跡的に詳しい方に会うことができた。

確かに50年ほど前まで、親戚がこの辺りで牛の屠殺や牛馬の売り買いをしていたという。この辺りの家はみなそういう仕事をしていて、「被差別民」と言われていたそうだ。柳町という名は知らないが、旧石岡町の北の端のこの辺りがそう言われていた、とのことである。

名字は文献にあるとおり背黒で、博労と屠場をやっていたということなのだが、最後の1軒が50年くらい前までやっていたということなのだ。屠場と牛馬の取引場所が併設されていたのだが、ここから離れた場所にあってもう跡形もなくなっており、正確な場所は分からないということだ。

石岡市は同和地区の指定をしていない。1996年9月の市議会で、当時の助役が「石岡市には同和対策基本法に基づく地区指定はございません」と答弁している。質疑によれば、市がかつて県に「石岡市には同和問題はない、同和の人はいない」と報告していたという。
歴史的文献にはあるものの、『全国部落調査』で融和事業の対象とはされず、戦後の同和地区指定の対象にもならなかったということだろう。

しかし、公式の記録にない古村は確かに存在していた。今回クエストしなければ正確な場所は完全に忘れ去られていたことだろう。勝利である。



