今回は草津駅前の指定同和地区を訪れた。戦前の戸数は51、かつては留守川村、新町と呼ばれていたようだ。現在の地名は西草津一丁目。略して西一というのが同和地区の呼称となっている。
1996年の同和対策地域総合センター要覧によれば1971年に141戸だったものが1996年には385戸と大幅に増えている。改良住宅と公営住宅は合計80戸あるとされている。
『滋賀の部落』によれば、ここは東海道の宿場である草津村の枝郷の穢多村であった。典型的な街道筋の宿場部落である。
留守川という近世の名称のルーツのヒントがこの駐車場にある。ここは2002年までは草津川の川底だった。今は川が付け替えられたが、旧草津川は天井川で、なおかつ平常時は水が流れていないという特徴があった。水が留守だから留守川というわけである。
川底がかなり高いので、自動車が通る道路や鉄道は橋の代わりに川底をくぐるトンネルを通っていた。
留守川は藍染が盛んであった。染め物を作るだけでなく、原料の藍玉の取引を行っていたという。藍染を扱う青屋は全て穢多であったが、分限者が多く、明治期の1戸あたりの納税額が滋賀県内の部落で一位だった。
いわゆる「青屋村」は穢多村でないところもあるので、青屋が賎視されていたというより、ここでは穢多が青屋を営むようになったと見るべきだろう。
ここでは1976年から同和対策事業として小集落改良事業が行われた。
稀有な例だが、事業の除却図が草津市によって公開されている。
これも稀有な例だが草津市が2010年の詳細な状況も公開している。それによれば当時の戸数は名目上500、実質的には481だったとされている。そして混住化率は73.18%。
どうも草津市の言う混住化率というのは、同和関係者でない人の割合を言うようなので、大部分は外部から移住してきたということだ。
それゆえに問題もあった。10年ほど前まで固定資産税の同和対策減免があったのだが、その認定を解放同盟支部長がやっていた。しかしこれほど人が流入しくると、旧住民との婚姻や離婚も頻繁にあり「同和関係世帯」かそうでないかの切り分けが難しくなった。そのため、ある時解放同盟支部長が今後は申請があれば全員認定すると宣言してしまった。
これは圓教寺。真宗大谷派のお寺である。「大谷派地方関係寺院及檀徒に関する調査」にも出てくる。
ここが西一会館という隣保館。比較的新しくして立派な施設だ。
ここに関係してもう1つ騒動があった。地元隣保館の嘱託職員は従来は解放同盟の推薦で入れていたのだが、それも新住民を含めて一般公募した。しかし、これも解放同盟支部長の独断で、後になってから解放同盟上層部から横槍が入った。その時には既に一般からの応募者がいたのに、排除されてしまったという。
さらに支部長を辞めさせられてしまったということだ。
しかし、現状はそもそも固定資産減免は廃止。西一会館は地元NPOによる指定管理となっている。
現地を歩くと、ニコイチの間に持ち家やアパートが混じっている。新快速が停まる駅の間近なのだから、間違いなく同和事業をやらない方が自然に開発されて、今頃何の違和感もない住宅地になっていたはずだ。
なお、草津市でも改良住宅の払い下げが進められている。ここでも徐々にニコイチが減っていくと考えられる。
この部落で同和事業は必要なかっただろう。そのようなことを住民から聞いたことがある。
また、『滋賀の部落』によれば西一の住民は隣の木川新田地区の住民を差別しており、一般地区からのそれより激しかったことが書かれている。住民によれば、それは事実であったようだ。かつては、新田の子と遊ぶなということはよく言われたそうだ。
近世の歴史についても、同和事業についても、いろいろと示唆するものが多い部落である。
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