示現舎では、「穢多人別帳」という直球なタイトルの文書を入手した。「明治3年」「山河村」との記載がある。文字通り内容は当時の穢多の名前が記載されており、「真言宗長養寺菩提」とあることから、山河村とは同寺が現存している現在の埼玉県深谷市山河であることが分かる。
明治3年当時の記録によれば「穢多」は6戸35人。戦前の記録では16戸104人の部落があったとされる。
冒頭の記述を、古文書が得意な方に書き起こしていただいた。次のとおりである。
奉差上人別帳之事
一当年来人別相改候処村中大小之穢多
□□□□
御言札者(は)向後[追々]御布令之趣
其他新宗門怪異之宗法等
都而
御制禁之通り穢多相守□不審之者等□御座候。若御法度
相背候者御座候ハバ御實鑿之
上如何之罪料被仰付候共□□
相背不仕候依之大小穢多
一同連□奉差上候処如件。
その内容の意味は「今年も人別帳を作ったが、この村の穢多に宗教上の禁制を守っている。もし禁制に背く者がいれば、どのしょうな処罰を加えても構いません」といったところであろう。
人別帳は江戸時代の戸籍であり、それを作る名目はキリシタンを取り締まるためだったと言われるが、まさにその通りである。
各戸主が印を押して、世帯員の続柄と名前、年齢が記載されているが、名字の記載はない。
「惣吉」という穢多が人別帳を取りまとめたことが分かる。
明治2年にはいわゆる「士農工商」の身分が廃止され、皇族・華族・士族を除く大部分の人は平民とされた。明治4年にはいわゆる「解放令」が出され、穢多等の賤民を平民とすることが明示され、さらに現代の戸籍制度の原型が作られた。
明治3年はその間の微妙な時期で、この穢多人別帳から分かることは、その年はまだ江戸時代の人別帳制度が継続されており、穢多という身分が当然のように存在していたことだ。
末尾には百姓代(村役人)の名前も記載されている。公の書面で名字を名乗れなかったのは穢多も百姓も同じだった。
筆者はこの文書が作られた場所が今どうなっているか確認するため、現地に向かった。
ここが長養寺。住職は常駐しておらず、とても小さな鐘がある、風情のある寺だ。
寺の隅には古い墓石がある。
寺の前の大きな墓地は、かなり昔からあるはずだが、墓石は新しくなっているものが多かった。神岡、三ツ橋、長谷川といった名字が多く、墓地の中で混在している。
寺から少し歩くと庚申塔があり…
伊奈利神社を見つけた。
神社の中の石碑を見ると、氏子の名字は長養寺近くの墓地のものと共通していると思われる。
神社の境内には「山河会館」という建物があるが、これは民間の公民館であろう。同和対策で作られた公共の建物に注連縄があるというのは考えにくい。
神社周辺の家は、どれも古くからの農家といった感じで大きい。
さらに歩くと曹洞宗の寺を見つけた。
こちらは明らかに長養寺とは名字の傾向が違う。
住宅地図で「神岡」という名字が集中している辺りを歩いてみた。このように田畑が広がり、各家は大きい。明らかに古くからの農村で、各家が土地を持っていたと考えられる。
埼玉工業大学の近くには長谷川という表札の家が多い。
ここも田園風景が広がっている。違いと言えば、古い家が多いということくらいである。少し土地が小さめの古い家と、ガレージがあるような豪邸が混在している。
いずれにしても、どこが部落なのか、同和事業が行われたのかといった形式は見られなかった。既に融和したのではないかと考えられる。
穢多人別帳には名字の記載がないことから、現代の戸籍との関係はすぐには分からない。ただ、史実として明治12年に同地の「長谷川惣吉」という人物が「戸籍変換御届ヶ」という文書を役場に提出した記録がある。この人物が、明治3年に穢多人別帳を取りまとめた「惣吉」と同一人物である可能性は極めて高いだろう。
馬頭観音は馬の遺体を処理した事から被差別部落の名残という見方が有りますが、庚申塚についてはいかがでしょうか?と道教に由来する庚申講が開かれたの場所というのが一般的な見方だとい思いますが、訪れてみると部落の名残りがある土地に多い気がしていました。
昔は牛馬は自動車の代わりだったので普通の農家も所有していて、当然愛着がわけば死んだときには供養するので馬頭観音があるのは部落に限りません。
庚申塔は北関東や長野県ではよく見かけます。古くからの村があったという証拠にはなりますが、部落とはあまり関係がないです。
賤民概論に基づく賤民記述、賤民研究とやら、特殊部落論に基づく部落史記述、部落史研究とやらは、近代創出の偽史体系であり、近代オカルティズムと言い換えてもいいくらいだ。また、非常に偽史料が多い分野であり、歴史学的アプローチは慎重にして欲しい。
ちなみに賤民概論、特殊部落論は大正時代、京都帝国大学の教授だった人物が提起した学論であり、これが、水平社宣言、水平社結成に影響を与えた。