1935年、現在の岩国市周東町獺越明神に喜十郎という名前の部落があったとされる。
主な職業は農業、砥石掘り、日雇い労働。儀正堂、明神を探訪した際に、喜十郎についても聞いたのだが、大まかな場所を知っている住民がいた。ただ、喜十郎には既に人はおらず、廃集落になっており、長らく行っていないので今はどのような状態になっているか分からないということだった。
ここが明神。田んぼが広がる盆地に、離れて家が建てられた広々とした集落がある。
明神自治会の掲示板には航空写真にどこが誰の家かラベルされたものが掲示されている。
やや年配の住民によれば、喜十郎は明神とは別の村と認識されており、住民の記憶にある頃には、 喜十郎の住民は高齢者ばかりだった。そのうち若者が1人いたが、明神の住民の下で働いていたのが記憶にあるという。部落とか差別云々というのは聞いたことがないという。
過去の航空写真によると、戦後間もない頃の喜十郎は明神と同じように田畑の間に家が散らばっていた。それから時代が経つにつれて家が徐々に減り、1975年にはかろうじて数件が残っていたが、1981年には山林に覆われている。
現在は資材置き場となっているこの分かれ道を、まず右に進んだ。
林道を進むと、あちこちが土砂崩れの跡のようになっている。
このように石垣が積まれた場所があるが、これはどうも田畑の跡で、家があったわけではないようだ。結局、集落跡は見つけられなかった。
翌日、再チャレンジして今度は左に進んた。
途中に少し開けた場所があるが、家らしきものはない。
荒れ果てて、途中で道とは思えないような状態になっている場所もあるが、とにかく進む。
水路と橋があり、確かに集落があったような雰囲気がある。途中にマムシがいた。
さらに進むと、墓と小屋のようなものが現れた。墓石には「平成十六年四月 平川喜義建立」と刻まれている。
墓の後ろの竹やぶには皿、鍋、壺、ランプといった生活用品が散らばっており、建物は跡形もないが、人が生活していたような形跡がある。
後で知ったのだが、墓があったのは、おそらく1960年代頃まで家があった場所と考えられる。最後まで家が残っていた場所は、1980年代に家が山林に覆われている様子が航空写真で見えるので、ひょっとすると廃墟跡が見つかるかも知れない。
ただ、その地点は、さきほどのやや開けた場所から、上の写真のような道なき道をかき分けて進んだ場所ではないかと考えられる。もし再度岩国市を訪れることがあれば、装備を万全にして再々チャレンジしてみようかと思う。
この場所に廃墟があると考えられる。
平川喜義さんの電話番号は2000年の山口県玖珂郡周東町用田の電話帳に載っていますね。
東大阪市で、6/20(木)18:30から日本共産党演説会を荒本人権文化センター 大ホールで開催します
部落訪問というより、
廃墟・廃村探索状態ですね。
叫んで固定化しないと、
他の集落同様あっという間に
高齢化の波に消え去って
しまうんですね