「神鳥谷」は難読地名で、「ひととのや」と読む。今回の出典は1992年に部落解放同盟栃木県連合会により発行された『栃木県部落解放運動の歩み』である。同書に掲載された神鳥谷村の絵図に「南穢多屋敷」と「北穢多屋敷」がある。
昭和初期は36戸程度、農業が主な産業だったと言われる。

この神鳥谷交差点からクエストを開始した。交差点の標識にはHitotonoyaと書かれている。

これが『栃木県部落解放運動の歩み』に掲載された絵図。地図の右が北、左が南である。

これを明治末期の地図と比較すると「柴」と(別の資料では「芝」とも)書かれた場所に2つの集落が見える。これが南北の穢多屋敷だったのであろう。なお、地図では神鳥谷の読みが「シトトノヤ」になっている。訛った読み方をそのまま音写したものだろう。

現在はその場所を国道50号線の小山高架橋が貫いている。北側に「オリジナル皮革」が見える。

絵図の「南穢多屋敷」あるいは「柴」の場所は、この辺りになる。明らかに整備され、まるで公園のような歩行者だけが通れる道路がある。水路や鉄道の跡かと思ったが、過去地図と比較するとそうでもなく、区画整理の際に意図的に整備されたようである。


印象としては駐車場が多い。しかし、ストリートビューで巻き戻すと、10年くらい前から大きく風景は変わっていない。


創価学会の会館があり、ここは南穢多屋敷の南端になる。


駐車場の他に目につくのは、建売住宅や民間のアパート。

これはまさにニコイチ住宅。しかし、公営ではなく、民間のおしゃれなものだ。

掲示物に同和だの人権だのといったものはなかった。おそらく同和事業は行われているが、同和対策の集会所はない。新しい住宅に住んでいる人は、ここが穢多屋敷だったことは知らないであろう。

後で気づいたので、ストリートビューの画像で申し訳ないが、神鳥谷には人権センターがある。ただ、これは民間のもので、なおかつここが部落解放同盟の所在地である。場所は先ほどの創価学会小山会館よりもさらに南の昔は田畑だった場所であり、古村の中ではない。
なお、『栃木県部落解放運動の歩み』に書かれた部落解放同盟栃木県連合会の住所はここではなく、古村の中になっている。2001年に「人権センターとちぎ」の場所に移っている。


この舗装されていない駐車場には、ここが畑だった形跡がある。






今でこそ市街地になっているが、あちらこちらに農村だった形跡がある。この錆びた機械は、耕運機である。


表札を見ると、橋本が多い。ただ、古くからの家は豪邸が多い。




この馬頭観音が、ここに古くからの村があったことを示している。なお、神社や寺はない。
創価学会小山会館から国道50号線を挟んで、ファミリーマート小山八幡町付近までの間、古い平屋が多数散見されますが、部落の改良住宅だったりするのでしょうか?
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