旧志太郡岡部町では水平社支部が活動していた記録がある。設立は大正14年2月15日、団員は21名、主要人物は草履作りをしていた稲木文蔵と、宮崎傳次郎という人物だ。岡部町長の後援で講演会をやっていることから、町も協力的であったことが分かる。
昭和初期の戸数は17戸と記録にはある。
菊池山哉は次のとおり記している。
○東海道筋八丁畷に位置する。十三戸ばかり。
○神社はない。祖師堂と称する堂がある。ここに七面大天女と堅牢地神が祀られて居る。鳥居はない。
○祖師堂に廻り九尺の樟の大樹がある。草分けの時代も其頃であらうか、草履を主として作る。
祖師堂というのは、現地にあるこれであろう。見るからに日蓮宗に関連するものである。
祖師堂とは開祖を祀る堂のこと。ということは日蓮聖人が祀られているのであろうか。七面大天女は法華経の守護神、堅牢地神は地面の神。いずれも女神である。
お堂の横には駐車場があり「宗傳寺 七面堂」とある。宗傳寺はここから少し離れたところにある日蓮宗のお寺。祖師堂は現在では七面堂と言うようだ。
墓地には稲木、稲毛の他宮崎もあった。稲毛というと、以前に探訪した伊豆の国市長岡の改姓前の名字であり、関連が推定される。稲木、稲毛の両方がある理由は不明だが、単に戸籍に記載した時の表記の揺れではないかと思うがどうだろう?
なお、「廻り九尺の樟の大樹」は見当たらない。住民に聞いても記憶にないという。昔を知る老人は皆亡くなってしまったそうだ。
さきほどの墓地にあった名字と同じ古くからの家には宗傳寺の御札がある。しかし、古くからの家でも全てに御札があるわけではない。
よそからの転入者も多く、ぶっちゃけ創価学会員も多いとのことである。
同和施設はない。同和事業が行われたかどうかは不明だが、部落内は道が整備されているように見える。住民によれば差別だのということは知らないという。
融和事業や水平社運動が盛んだった地域であるがゆえに、戦後に融和している例は多い。ここもその例に該当するのではないだろうか。
しかし、そのような中で目に入ったのが立石神社の神璽である。昭和3年の静岡県水平社本部の差別事件経過報告書によると「志太郡岡部町内谷の部落民を郷社立石神社祭典に参加させなかった」ことを糾弾している。後の経過は不明だが、現在は立石神社の氏子になっていることが分かる。
>同和事業が行われたかどうかは不明だが、部落内は道が整備されているように見える。
『藤枝市の都市計画(資料編)』(平成26年4月作成)
住宅地造成事業施行状況
44.岡部町内谷小川 9,123㎡ 37戸 施工者:岡部町
開発許可:昭和53年12月15日 完了公告:昭和54年
国土地理院の航空写真1979(昭和54)~1983年で区画整理が確認されるので、時期も合致している。一般事業で行われた様ですね。
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ありがとうございます
やはり一般事業ながら区画整理はされていたのですね
エタ村の記載は無けれども、家屋が描かれています。
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