川越市寿町と野田町は隣り合った部落である。1935年の記録では寿町(当時は豊田本)46戸、野田町38戸とある。そして、ここは同和事業を行っていない未指定地区と考えられる。
この部落がユニークなのは、2つの部落の間に白山神社があることだ。この参道の左側が寿町、右側が野田町となる。ただし、現在ではこの神社は寿町に属しているという。
ここは部落のど真ん中のはずだが、そのようなことを意識させる風景はない。
ここが寿町一丁目集会所。無論、同和施設ではなく、ただの自治会館である。昔は野田町と寿町が共同で使っていたのだが、いつの頃からか野田町は別途集会所を作ってここは寿町だけのものになったという。
境内には複数の石碑がある。
この白山神社は武田信玄ゆかりのものらしい。バイクで乗り付けて参拝して去っていく人の姿があった。
狛犬には岡島、荻原という名字の氏子の名前が刻まれている。
この円筒形のものは、昔の鳥居の土台か何かだと思ったが、実際は火事等に備えて水を貯めておくためのものだったそうで、現在は蓋がされて固められている。
そして、墓地も 岡島、荻原が多い。主な宗派は時宗で、日蓮宗の墓石もいくつか見られる。
近くの家の表札も岡島、荻原が多い。
ただ、気になったのはそのような古くからの住民の家が全般的に大きくて立派なことだ。聞いてみると、荻原本家は昔からの商家で、ここにはその分家が多いのだそうだ。
このような廃墟もあるにはあるが、取り立てて多いわけではない。
こちらは野田町だが、部落には見えない。
これは、田舎にはよくあるタイプの、ただの古い文化住宅だろう。
無論、同和だの人権だのといった掲示物はどこにもない。
おそらく、同和事業を行うまでもなく住民が豊かになり、外部から移り住む人も多くて解放されていった部落と考えられる。
川越の野田地区とは異なりますが、狭山市菅原四丁目をリクエストいたします。100%解放されたと云っても過言ではないような地区と認識していますが、長い歴史から見ればアッという間に変貌を遂げた被差別部落を紹介していただければと思います。己でそれができない後ろめたさは残りますが、youtube【部落探訪】で狭山市の柏原地区とともに示現舎さんの目に映る狭山市被差別部落の現状に対する見解を知りたいと思います。
https://jigensha.info/2016/05/30/buraku-sayama/
菅原四丁目、もうやってますよ。石川一雄との面会は、ぜひ実現してほしいところですが。
勉強不足で失礼しました。石川さん本人はサービス精神旺盛で誰かれなく会ってくれそうですが、如何せんまわりのガードが固くて難しそうですね。
この部落は江戸時代には砥石の権利や近くの今は東上線になっている一部分にあった処刑場での役目もあったんですよね
東上線を造る工事の時にドクロなどの人骨がゴロゴロでてきたようです
ここ出身の荻原佑介は狭山事件の石川の父と親交があったようで狭山事件を調べてると名前がでてきます
解説ありがとうございます。
荻原佑介のWikipediaを見たら面白い人物だね。
多摩の連光寺の荻原姓との関係なや白土三平のこの人はどうだろ。
>1946年、東京に戻る。東京都練馬区の被差別部落に住んでいたこともあり、弟の親友の荻原栄吉は後に部落解放同盟練馬支部長となった。
>荻原は「『カムイ伝』など白土三平の漫画には練馬での体験が影響しているのかと思うことがある」と述べている。
鳥取ループは部落解放同盟をdisる時は早口になるw
君の家は屠殺業か
近くの神社の宮番じゃないのか
連光寺の部落姓はハギワラだよ。打桐君。
荻原氏は、川越大師・喜多院に再建されている白山神社のところに元は屋敷を
構えていた一族。江戸幕府により仙波東照宮を造立する際に立ち退きを要求され、
白山神社も解体された。それまでは喜多院の祭事における興行の元締めも行って
おり、同寺に700石の寄進をするほど裕福であった。野田へ移らされた際には、
代替地として4町5反4畝 (13,600坪=45,024㎡) が与えられた。
という事で、かなりの土地持ちなんですな。
部落について数々の著書を刊行されている「本田豊」さん、逆さに読むと「豊田本」。アレ、偶然だとは思いますが、ネタであれば結構いいセンス!