今回は、村上市の塩谷という場所にやってきた。ここは戦前には26戸の部落があったとされる。主に日雇い等の仕事をしていたようだ。
『埼玉県,山梨県,新潟県での現地研修記』 には次の記述がある。
三面川の河口か ら車は海岸に沿って南下する。瀬波温泉で一休みする。洋上 はるかに粟島を見る。夏の日本海は静かで冬の日の強風と荒波は実感しにくい。 岩船港を過ぎて広大な砂丘林の中を南下する。やがて荒川右岸の河口近くの集 落に入る、商店のある広い道が急に狭 くなり、曲がり、登り坂になる。車を降りて家々の間を通り抜けると砂丘の突端である。板の垣で砂を防いでいるが冬は大変だろう。 ここもSという部落である。道が狭くて消防車が入れないので、 その対策として融雪パイプを敷設したのだそうである。砂丘の突端に位置しているからといって漁業に従事 しているわけではない。 ひっそりとしていて人の 往来もない
このSという部落こそが塩谷だ。ちなみに、筆者も途中で瀬波温泉に入った。
現地は寂れた商店街のようだが、古くからの商人の街を思わせる町並みだ。実際にそうなのだろう。
よく見ると、一軒一軒に四角い木に描かれたシンボルのようなものが掲げてられている。何なのか聞いてみたが、困ったことに、年寄は方言がきつくて何を言っているか分からない。
それでも何とか理解できたのは、これが「印」で商店だった時の屋号を表しているものだという。つまり、これが掲げられている家は商家だったということだ。無論、今も商売をやっている家もある。
古くからの商家が多いのは、近くに北前船が出入りしていたからだという。つまり、上方や北方の間で運搬される商品をここで取引していたということだろう。
ここが道が曲がった上り坂と考えられる。
この辺りに来ると急に様相が変わる。「印」が掲げられている家がなくなる。
坂の途中に鳥居と階段がある。ここは稲荷山で、別名番所山とも言われたところで、文字通り江戸時代まで村上藩の監視所があったところだ。ということは、部落の役目は監視役だったのだろうか。
稲荷山という名前の通り、山の上には稲荷神社があり、参道は千本鳥居のようになっている。
監視所だっただけのことはあり、眺めはよい。海側も陸側も見渡せる。隠れた名所と言える。
しかし、ここでも曲輪クエストという目的を忘れてはならない。家の数を数えると、明らかに26戸は超える。つまり、塩谷全体が部落ということはあり得ない。
浜に近い、商家の見られない辺りが、大体26戸前後あるように見える。
確かに記録にある通り、ひっそりとしていて人の往来がない。
商店もいくつかあるが、今日はお休みのようだった。
この蕎麦屋が唯一「印」を掲げているが、今日はもう品切れと張り紙があった。
確かにこの一角だけは寂しい雰囲気がある。
ここは荒川の河口でもあり、対岸は桃崎浜と海老江だ。そのため、船渡しの役目もしていたと言われる。そう言えば 桃崎浜と海老江にも部落があり、それらは荒川に近い側にある。
しばらく散策したが、結局人に会うことはなかった。
探訪する地区はどのような基準で選ばれてるのですか?
過去に実地調査や戸数の比較的多い地区を選んでいるのでしょうか?
一貫した基準はありません。新潟については、同和関係のニュースやイベントが最近多くなっているような気がしたので、行くことにしました。
実は関電の騒動の時に貴方や同和wikiなどの存在を知って実家がそういう地区であったと知った者です。
まさか自分がそうであったとは考えたこともなかったので驚きました。
20年前ぐらいになりますが祖父が20年前ぐらいになりますが祖父が近隣の地区を軽蔑した言い方で「あそこは同和」と祖母と話していたり、私の親が結婚するときに調査したような発言もありました。
私の母の実家はそれに載っていませんでした。
しかしその文献には5戸未満の世帯数で記載されていました。
それは実際の地区の総世帯数の30分の1から40分の1程度の世帯数でした。
教育集会所?等もありませんでした
そのような戸数の極めて少ない地区も探訪するつもりはありますか?
単に監視をしていたという事ではなく、関銭を徴収する
事もしていたかもしれませんね。