上越市北本町4丁目は、かつて「西村町」という名前であり、1928年の記録では103戸の部落であった。主な産業は日雇いや革細工であったとされる。
2014年に上越市が高田開府400年を記念して作成した冊子の古地図に「西邑町」の名前があったことがなぜか問題とされ、部落問題についての解説を付けて冊子が再配布されたことから、再び部落であることが注目されるようになった地域でもある。
部落の北の端にある白山神社から探訪を始めた。
大きくはないが存在感のある神社だ。
そして、境内の隅には白山会館という市の建物がある。
教育委員会管轄なので、カテゴリとしては教育集会所と考えられるが、中はこの通り。新潟にここまであからさまな施設があるのには驚いた。
一方、この一里塚が部落の南の端となる。南無妙法蓮華経とあるので、日蓮宗と関係があるらしい。
部落の中をほぼストレートに広い道が通っている。
東西にも真っ直ぐな道があり、その先は田んぼが広がっている。
部落内の家は古く、空き家が多いように感じられる。
新しいアパートがあるが、住所を確認すると3丁目で、隣接地域だ。
住民の流出が多い一方で、これらの古い家は実は借家になっていて、よそから移り住んでいる人も多いという。見た目では分からないが、どんどん住民が入れ替わっている最中だ。
ある住民によれば、解放同盟の活動は、部落の中でも一部の人がやっていることだが、今でも部落であることを気にする人はいるし、差別と戦ってきたということで解放同盟の活動には理解を示した。
広い公園には誰もいなかったが、よく手入れされている。
こちらは保育所で、これも立派な施設だ。
江戸時代中期の文書に、直江津の春日山城(※文献によれば、 春日山城 ではないようです。コメント欄参照)の庭掃として亀井・鶴若・紫という姓の人物が登場するが、この部落にはそれぞれの名字の表札のある家を見ることが出来る。
しかし、実情を聞いてみると、既にそれら由緒あると思われる住民は出ていってしまっており、残っているのは空き家だという。今は亀井家が1つ残っているだけだ。ただ、その亀井家と江戸時代中期の文書の記述との関係を示す伝承等は残っていないという。
この部落は、ごくありふれた地方都市の寂れた街という佇まいで、全般的に大きな家はない。ただ、唯一この太鼓屋だけは旧家の佇まいだった。
なんだか屋根に行くことができそうな梯子がある家が多いですね
もしかして新潟だけに雪を落とすために普通にあるのでしょうか?
雪国は大変ですね
石川一雄さんへのインタビューは、ぜひ実現してほしいです。
そして、以下の点を突っ込んでほしいです。
「事件前に石川さんが書いた早退届の筆跡と、狭山事件の脅迫状は何故こんなに似てるんでしょう。どう思いますか?」
「石川さんは『第1番目に自殺した人(奥富玄二)が犯人じゃないかと、私は今でも思っています』と言いつつ『善枝さんには、申し訳ないことをした。自分があともうすこしがんばっていれば、犯人はつかまったはずだ』とも言っていますね。でも、石川さんが逮捕されたとき既に奥富は死んでいたじゃないですか。ということは、石川さんがいくらがんばっていても奥富逮捕にはつながらなかったわけでしょう。矛盾していませんか?」
「石川さんは『私は兄が犯人だと思っていたので自白した。接見禁止が解けて兄と面会したとき、事件当日は確かに夜遅かったが四カ所に集金に行っていた。俺は犯人じゃないと言われた』と言っています。でも、石川さんが無罪主張に転じたのは接見禁止解除の一年以上も後じゃないですか。一年以上もの間、お兄さんから『俺にはアリバイがある』と聞かされなかったんですか?」
「接見禁止解除(1963年9月4日)から無罪主張に転じる(1964年9月10日)までの約一年間に、石川さんは知人や裁判長に対して犯行を認める手紙を書き送っていますね。『私は必ず人を殺して反省をしないようでは神様が黙ってはおりません』(1964年3月7日)とか『私は狭山の女子高校生殺しの大罪を犯し』(1964年4月20日)とか。石川さんは一体いつまで『兄が犯人だと思っていた』んですか?」
実は私は事件そのものよりも、石川氏と部落談義をしたいです。今、どう見ても部落民だった方は裕福になっているように思いますが、その辺りをどう思うかとか。
石川一雄氏といえば解放同盟にとっては殉教者のような存在ですから、そこに鳥取ループさんが逢いに行ったら、話の内容が何であれ、解放同盟の面々が憤怒発狂するのは間違いないです。
ご高齢で健康に話が出来るのも限られてるかと思うので早い方が良いと思います
後悔先に立たずです
>>「直江津の春日山城の庭掃として・・・」
原文を見ていないのですが、これは訂正された方がよろしいかと。
①「春日山時代以来の御城庭払を旧福島城より・・・」(穢多町由緒書)
②「春日山御代における直江津の砂山の城の庭掃きとして・・・」(関東の
部落:川元祥一)
おそらく上杉景勝の後に入った堀氏による福島城、もしくは元関東管領
上杉憲政の居館であった御館しか「砂山の城」に比定できないと思います。
申し訳ございません、注記しておきました。
解放同盟大阪府連の「ストーンリバー」こと佐々木寛治さんに、ここに投稿したのと同じ疑問を礼儀正しくぶつけてみたところ、何の反論もなく一方的にコメントを削除されました。佐々木さんは、どんなコメントでも滅多にそのような措置はとらない人ですが、今回は何かよほど都合の悪いことがおありだったのでしょう。
まとめると
・石川一雄さんが犯行に関与していないとの立場からは、どうしても合理的に説明できない事実がある。
・その事実は、捜査や裁判の過程における部落差別の有無とは無関係である。
・冤罪説に都合の悪い事実に触れるのを解放同盟は意図的に避けている。逃げている。
・冤罪論者はまともに反論できない。実は判決文さえまともに読まぬまま、野次馬的に冤罪論を叫んでいる有象無象が多い。
・「石川一雄さんの冤罪」を世に訴えること自体が解放同盟の金儲け(いうなれば「再審開始するする詐欺」)の手段になっている。
・石川一雄さんは解放同盟の政治宣伝と金儲けに利用され、仮釈放中にもかかわらず真の更生を妨げられている。被害者遺族も冤罪論者から数々の嫌がらせを受けている。これも一種の人権侵害である。
これが現状です。
その太鼓屋が紫勘兵衛家の末裔の様です。
現在の姓は、福島城(直江津)時代の前住地から付けたと思われます。
堀氏→松平氏に仕えて高田に残ったのが勘兵衛家で、同じ一族の内
上杉景勝に随行して会津若松→米沢と移ったのが、紫屋又三郎家かと。
いつも貴重なコメントありがとうございます。
ありがとうございます。地域研究BBSにメモしておきました。
テクテクまっぷ「草履作り一筋に」紫屋正一(2002年12月放送) NCV米沢
2018/10/31 にアップロード
米沢市中央の紫屋正一さんは、東北でもただ一人の草履職人です。
歌舞伎役者や大相撲の力士の草履も作っています。ご自宅におじゃまして
製作の様子を見せて頂きました。
確かにこれは貴重です。ありがとうございます。
同和地区Wiki に表記の絵図が掲載されていますが、西村の東側に
隣接して「乞食町」と記載のあるのが興味深い。エタ村に非人部落
が隣接しているということだろうか。
ちなみに同和地区Wiki の同図の説明では「乞食牢」と書かれているが
正しくは「町」が上に「田」、そして下に「丁」の異体字で書かれている。
確かに、乞食は牢に入れないですよね。
昨晩気づきましたが、今年5月頃にヤフーオークションで上杉景勝に
従って米沢に行った紫屋又三郎家に係る文書が出ていた様です。
ほとんどは明治期の公的職種の任命書みたいですが。
上越警察署は2022年9月14日午後9時18分、新潟県上越市北本町4の会社員、塚田次男容疑者(61)を過失運転致傷と道交法違反(ひき逃げ)の疑いで通常逮捕した。
発表などによると、塚田容疑者は同日午前9時47分頃、同市土橋の市道で普通乗用自動車を運転中、道路左側を歩いていた同市の50代男性に後方から衝突。男性に右肘打撲など全治1週間のけがを負わせたが、救護措置などを取らずに現場から逃走した疑い。男性が警察に通報し、車のナンバーなどを伝えたという。
文久2年(1862年)創業、150年近い歴史を持つ和太鼓店。
砂山 とし子さんは、その歴史を受け継ぎ、日本で唯一、和太鼓をつくる女性の職人として注目された和太鼓職人であった。
太鼓づくりの一貫工程の中でも、特に音の良し悪しに影響を及ぼす革のなめし方、張り方の技術が見事で、多くの名品を生み出してきたが平成16年に他界。
その伝統のある名人芸は、20年以上も一緒に仕事をしてきた孫の敦(あつし)さん(43)に受け継がれている。
http://meister.j-monodb.jp/sunayama_toshiko/index.html
#1db82a74245d46b6dcb72f4744655703
ありがとうございます、記録しました