全国部落調査事件において、部落解放同盟神奈川県連の藤川正樹書記次長の陳述書が提出された。それによれば、伊勢原市では厳然と部落差別が残っているそうなので、実際に探訪してみることにした。
今回訪れたのは神奈川県伊勢原市上粕屋にある部落。石倉山、丸山と呼ばれた60世帯弱の部落で、高齢化が進んでいるとされる。
部落は大山阿夫利神社へと向かう大山街道の途中にある。
石倉上集会所は市の施設ではなく、普通の自治会館だ。
一方、こちらの石倉福祉館は市の施設。伊勢原市内には4つの福祉館があり、その位置から考察すると特に同和施設というわけでもないようである。人権、部落、同和にからむポスターやパンフレットのようなものは見受けられなかった。
こちらはかつて白山神社だったという石倉神社。集会所のすぐ近くにある。
神社の敷地内にはいくつか墓石が。妙法、宗蓮とあることから、この部落の住民が日蓮宗の檀徒であることが分かる。
確かにこの部落には藤川姓が多い。また、杉本姓も同じくらい多く見られる。
商店の近くには、どこかで見たようなものが。乾電池かカメラ・フィルムの自動販売機か?
…と思ったら、コンドームの自動販売機だった。しかも、隣の厚木市に本社のある相模ゴム工業のコンドームである。
神奈川というと、横浜近辺の大都会をイメージしがちだが、西側は田舎である。
薪ストーブ用なのか、薪が積み上がっている家があった。このように田舎生活を満喫できる。
畑が多く、白菜や大根や小松菜が育っている。地元野菜の無人販売所があった。
部落は扇状地と谷の境目あたりに位置しており、崖に囲まれており、起伏が激しい。
農家の作業場のようなところがあちこちにあり、スクラップ業者もいくつかあった。
おそらく、江戸時代のものと思われる道標があり、左「あつぎ」、右「田むら」とある。おそらく、大山に参る人にとっては交通の要所だったのだろう。
藤川氏の陳述書には突っ込みどころがいくつかある。
なぜ、「私の先祖は、江戸時代中期以降この地に暮らしています」と分かるのだろうか。まさか、解放同盟が見せるなと言っている寺の過去帳を見せてもらったのだろうか。
「産まれて来る子どもが差別されると可哀想だから子どもは産むな」と言うような人がいると知りながら、なぜ「厳然と残る部落差別」を強調して「産まれて来る子どもが差別される」という考えに説得力を持たせるようなことをするのだろうか。
そして、部落をバカにされたら、「それは差別です、私も部落です」程度の反論しかできないことである。
「住所でポン!2012年版」が人権侵害だと言うが、あれは単なる電話帳だ。「私も部落です」と言った人間の住所を電話帳で調べると、伊勢原市上粕屋の名前が出てくるとしたら、伊勢原市上粕屋に部落があると特定される原因は電話帳にあるのか、「私も部落です」と言った人間にあるのか、どちらだろう。
部落の中には馬頭観音碑がいくつかあった。街道沿いにあることといい、杉本姓が多いことといい、離れた部落であるのに谷保部落との共通点があるのが興味深い。
空き地と廃墟もいくつか見られた。ただ、あちこちに工事のためのプレハブ小屋があり、住宅地として開発中のようだ。
部落内には公明党と民進党のポスターがあった。一方、自民党のポスターは見られなかった。
こちらは、「山そば」。地元の名物店らしい。大山に参拝に行った帰りと思われる人で賑わっていた。
「なめこうどん」を食べた。1杯650円。細めの麺でボリュームがある。
民家をそのまま店にしたようなアットホームな雰囲気。
水曜日は定休日、木曜日も休むことが多いということである。営業時間は午前11時から18時。
大山に行った帰りには、ぜひこの部落に立ち寄り、「山そば」で食事をするべきであろう。
ありがとうございます。
次は秦野市曽屋ですかね。
楽しみにしています。
今度は、関西方面に行こうかと思っております。
「個人の欠点を批判することは自由ですが、それを部落全体のこととするのは差別です」。
ならば、個人が起こした「差別事件」を理由に組織全体「の差別体質」を糾弾する解放同盟のやり方は筋が通りませんね。藤川さん。解放同盟は、オールロマンス事件における京都市への糾弾を誤りだったと認め、反省し、謝罪しなければなりません。
>>「個人の欠点を批判することは自由ですが、それを部落全体のこととするのは差別です」。
これこそが、解放同盟が一番国民から怒りを買っている点です。でもこいつら、馬鹿だから、非常に利己的だから、わかってない。
解放同盟は、個人の発言であったとしても、毎回のように、組織全体を糾弾してきた歴史を持つ。
そのくせ、自分たちが不祥事を起こしたときは、個人に対する批判を、部落全体の批判にすり替えて、逃げる。これだから、自浄能力が育まれないし、反省もしない。まさしく、「交渉は集団で、不祥事は個別対応で」である。(ちなみに、日教組擁護派も解放同盟と似た点がある。)
だから差別されるの。だから嫌われるの。どうしてわからないのか?西島にしても、藤川にしても、解放同盟の上層部は、一人残らず、早く死んでください。こいつら、死んでくれたほうが、国のためにも、部落民のためにも助かります。
そういえば、宮部さんに伺いたいが。あなたは、何度も解放同盟系の人たちと面談したことがある。
こうした機会に、
「個人の欠点を批判することは自由ですが、それを部落全体のこととするのは差別です」
としながら、個人が起こした「差別事件」を理由に組織全体「の差別体質」を糾弾してきたこととの整合性を問い糺したことがありますか?西島とかは、なんと答えていますかね?
自分の経験上、解放同盟内部にも、「これでは国民から愛想尽かされる」と感じている人もいるようですが。
逆に、広島県連の関係者としゃべったときは、「他県連のことは他県連に聞いてください」みたいな感じで、身内の不祥事を一切気にしていないようでしたね。さすがは、多くの校長を死に追いやっただけのことがある。
それは聞いてみたことはないですね。今度の裁判で書面に書いてみましょうか。
次は関西方面ですか・・・以前リクエストした長野の佐久をお願いでしょうか?先日も腰越、岩村田のニコイチを見て来て独特の寂しさを感じました。腰越はいまだに同和集会所なる建物が白山神社と並んであります。長い期間でもご検討頂ければと思います。
佐久はGLA開祖の部落に行ってきましたが、何もなさすぎてボツにしました。まあ、それはそれで記事にしてもよいかも知れませんが…
腰越ではなく、下越ですね。
>>次は関西方面ですか・・・
西島の実家がある集落でも見学してくればどうか?共産党の地方議員のツイッターでの書き込みが正しいかどうか、確認してきてはどうか?
https://twitter.com/tanidamisao/status/806297869116243969
サウナ付き豪邸ですか。それはぜひ見てみたいですね。
次は関西方面にご出張の予定ですか。組織的な部落解放活動がなかった故に結果的に部落解放につながった大阪の未指定部落地区(大阪市の舟場・中津、吹田市の北之町・新町など)を是非訪問していただき、部落解放活動がいかに無益なことかを論じていただければ嬉しいです。
貴兄の研究の熱心さと深さには驚きます。ブログの初期の頃は吹田市の新町はどこか?なんていう記事があったのには嘘のような話です。(笑)圧力に負けず是非活動の継続を!
舟場、中津は一度行ったことがあります。当時の写真を掘り起こしてもいいですが、また変わっていると思うので行ってみましょうか。
全国部落調査が発見されてから、格段に知識が広がりました。昨年の1年は、その前の10年よりも飛躍した年だと思います。
>>中津部落
中津部落は、私も行ったことがある。ここは、再開発が進みすぎて、都市化が進みすぎて、指定解除になった地域じゃなかったかな?だから、未指定地域ではないような気がするのだけど。(記憶違いなら申し訳ない。)
阪急中津駅の北側にはまだ細い路地が残っていますよ。
中津は特措法時代には同和地区指定されませんでした。
大阪の未指定地区なら林とか峯地蔵とか晒とか諸福がお勧めですね
ついでに林の近くの沢田の小字に小林(古室八幡らへん)ってのがありまして、その辺は所謂賤民が住んでたらしいです。
あと恵我之荘4-6丁目に夙村があります。近くには向野がありますし
晒のすぐ向かいには東八尾座がありますし
峯地蔵の近くには小田平と朝日がありますね
奈良ですと野崎らへん(特に新車阪や新町)を取材してほしいです。
あと東の阪など
お詳しいですね。文献をご存知ならご紹介頂けると有り難いです。
あなたも大変だね。ここで名前が出た部落のほかにも、調べる価値のある部落は星の数ほどある。「宮部龍彦」の分身が30人ほどいて、活動資金もそれ相応に潤沢でなければ、部落の研究ができません。
この分野は、解放同盟のせいで、研究がなされてこなかった。だから、すること、調べることが山のようにある。倒れたりしないように注意してください。
私よりもはるかに能力のある研究者がたくさんいらっしゃるので問題ありません。
森田康夫氏の論文「近世賤民身分の重層構造について」や『羽曳野市史』などを参照していただければと思います。
晒や林については、地元の人間はある程度認識していると思います。
小林は昔、曾祖父に聞きました。
『全国部落調査』では、藤井寺にいくつかの地名が記載されていますが、該当箇所は林と小林(沢田の一部)のみです。あとは普通の農村でした。
私は大学で被差別部落史(近現代)を研究していたため、部落探訪のシリーズは毎回欠かさず拝読しています。
ありがとうございます。「近世賤民身分の重層構造について」は部落解放・人権研究書のサイトになりますね。
もし探訪する時は参考にさせていただきます。
また、部落探訪シリーズをお読み頂きありがとうございます。
宮瀧→藤川と来たら今度は片岡?
陳述書を出した役員一人ひとりの出身地区を探訪し、彼らが言うほどの差別が本当にあるのかどうか探る必要があるかもしれませんね。
関西方面を探訪されるのでしたら私からもリクエストを
今尚解同の影響力が凄まじい野崎、国守、八幡荘六区なんかいかがでしょうか。
北條と合わせて東高野街道沿いという点でも探訪しやすいかと。
リクエストありがとうございます。八幡軸は一度行ってみないですね。「人間みなきょうだい」に出ていた民家が現存しているようなので、間近に見たいです。
残念ながら手前の空き家は解体撤去されたようです。
「人間みな兄弟」つながりなら崇仁の朝市の場面で出てくる民家も現在1件だけ残っていますが、それも近々解体されそうです。
あの家は解体されてしまいましたか。残念です。
政府が空き家対策に本腰を入れ始めたので、これからどんどん減っていくでしょうね。
数年前まではバス道に面した石倉神社の前に、
「やめよう部落差別」の大きな看板が立ってまして、
大山詣でに向かう人々に、ここが地区であることを大々的に宣伝してました。
(伊勢原駅の前にもありましたけど)
やめときゃいいのに。
この石倉神社の成立は非常にややこしくて曖昧な所があって、
元々石倉には石倉上に「白山社」と下に「五霊神社」が祀られていたんですけど、
白山社は明治6年に現在の上粕屋神社に合祀。
五霊神社の方は昭和23年の台風で倒壊して、これも上粕屋神社に合祀。
その時に以前の社地を上粕屋神社に寄進したんですけど、
この地を境とする三つの小名(秋山・辻・尾崎)の自治会が公民館を作りたいと申し出て神社と交渉。
「石倉下」の名義に変更して公民館を建設してます(同和予算では無さそう)。
上粕屋神社からの土地を借りる条件が「公民館に五霊神社の神霊を納める」事だったようで、
以後、4月3日に石倉下の祭礼が執り行われる様になったとの事です。
石倉神社の成立もこの辺にあるのかも知れません。
新編相模國風土記稿には、この付近の白山社についての記述が四回出てきまして、
内、一つは「長吏持ち」であることは記述されてますが、「末社に金山稲荷祠を建」とあるので、
一之郷にある神奈山神社に隣接した白山と推測されます。
残り三つの内、二つが詳細不明で、
ひょっとしたら上粕屋神社に合祀された白山とは別に、
石倉神社の前身となるような白山があったのかも知れません。
伊勢原は自彊組合を作ったりして、
元々は自立心の強い地区じゃないかと思うんですけど、
写真にもあるように、横須賀に移住した方の一族の方が運動に感化されて、
前述の宣伝看板を出したりしてややこしくしてるんじゃないかなぁ。
もう一方の杉本さんや、
石倉の交差点を産業能率大の方に向かった「中丸・一之郷」地区の杉本さん・坂本さんは、
割と迷惑に感じてるんじゃないかと勝手に思ってます(笑)
旧高部屋村の「石倉・中丸・一之郷」は流入姓を見る限り、
下古沢との繋がりが深いように思えます。
大変詳しい説明ありがとうございます。
ストリートビューで2010年の写真が見られますが、「やめよう部落差別」は見つけられませんでした。
もしかすると、2010年の写真がない、石倉交差点からもっと大山側に行った辺りでしょうか?
はじめまして。
私、実家がこの地区にあり、生まれてから20年間まさにそのおそばやさんから少しのところ住んで居たものです。
部落差別があったなんて初めて耳にして驚いております。少なくとも「差別」を感じたことは私自身なく、両親も祖父母もこの土地でずっと暮らして居ますが、そのような話は聞いたことがありませんでした。
記事を拝読し、面白く、複雑で、不思議な気分になりました。
今住む住民はなんともおもっていなくても、そうでないひとからは「あそこは部落差別が未だあるらしい・・」という目線で見ている人もいるのだと思うと、それそのものが差別に感じられました。
本当に人があたたかく、いい意味で神奈川らしくない、故郷として自慢できる素晴らしいところです。また是非お蕎麦を食べにいらしてください。
神奈川は同和事業が始まるのが遅かったので、お住まいになっていたのが昭和50年代後半より前なら、地元の方でもまず知らないと思います。
もっとも同和事業の時代でも、たぶん関わっていたのは一部の運動団体の人だけなので多くの住民は知らないかも知れません。
「山そば」は実は後でまたもう1回行きました。大山に登山&参拝に行った後に立ち寄る定番の場所になりそうです。
子供は写さないほうがいいのではと思ったよ。いくら顔は隠れていてもね。
あ、本当だ。なんか写ってました。
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