ここは昭和初期には8軒の小さな部落として記録されているが、長野県の部落史にとっては重要な事件のあった場所である。『差別とのたたかい 部落解放運動20年の歩み』には1967年の時点で11戸の部落として記録される。
菊池山哉の『長吏と特殊部落』によれば次の通り。
○沓澤村は其名の如く澤村であるが、その澤村から本街道へ出口の咽喉を扼して居る。
○白山神、台地尖端上にある。祭日、四月十一日、十二日。神躰は鏡。末社、稲荷、石像大日如来、八幡神(猿田彦神)大山石尊金比羅神。猿山彦命を八幡神とは小々無茶であるが、然うだと信じて居る。
○この曲輪は沓澤村字沓沢の御所村と称へ、地続きの部落を坪之内と称へる。坪之内は御所の庭ノ内の義であるべく、この御所に何人の住むで居つたかを伝へないが,この曲輪が或は御所に関係があらうかと思はれる。併し例によって何物の捉みどころもない。戸数は十六戸ばかり。此の郡としては多い方である。
沓沢は台地の上、かつ谷間にある100戸を超える集落だが、部落はその入口付近にある。
部落の起源は江戸時代で、宝永5年(1708年)に沓沢村の百姓が、村の警備のために現在の小諸から穢多を招いたとの記録がある。確かに村の入口を監視できるような立地である。
掲示板には同和だの人権だのといった掲示物はなく、同和施設らしきものもここにはない。しかし、戦前の運動は激しかった。
昭和6年(1931年)に水平社の支部が結成され、その年に「沓沢闘争」が起きている。
『「全国水平社』創立60周年・「南北』佐久地区協議念結成30年認念誌 佐久地域の部落解放運動史』によれば、沓沢部落の山崎林作宅に闘争本部が置かれたという。
他には1954年に沓沢の解放同盟支部員Yさんの娘のFさんが愛知県の坂鎌織物工場の職場内で、同郷出身の従業員が同僚に「Fさんの家は草履をつくったりしている四ツだ」と発言した「差別事件」があった。
1973年には佐久市沓沢の老人クラブの飲酒の席で老人が部落のYさんに「おまえはチョーリのくせになんだ」と発言した「差別事件」もあった。この時の解放同盟沓沢支部長は「山崎愛次支部長」であったと記録されている。
共通して出てくるのは山崎という名字。Yも山崎であろう。ここから部落の位置が特定できた。
沓沢闘争に話を戻そう。この闘争の中で起こったのが、水平社による沓沢区長に対する暴行事件。いわゆる竹槍事件である。『佐久地域の部落解放運動史』の年表では「デッチあげ」と書かれているが、本文を読むと明らかにそうではない。
「区長らに対して荊冠旗の竹槍でなぐりとばしてしまった」とある。
『被差別部落の伝承と生活』では「縁先にいた沓沢の青年が、区長の頭を二回なぐった。そして荊冠旗の竿で縁側を叩いておどかした。力いっぱい叩きつけたので、荊冠旗の竿はささくれてしまった」とある。
参加者には、山崎の他に高橋、竹内という名字がある。高橋は言わずもがな、竹内は本シリーズでいずれ紹介する上田市前山の部落の名字である。
要は沓沢の部落住民が周囲の部落の住民と徒党を組んで追しかけ、荊冠旗が付いた竹槍で、竹が割れてささくれるくらいに沓沢区長を思いっきり叩き、さらに血を流す区長の似顔絵を描いて挑発したというのが真相ではないだろうか。
なお、今まで探訪してきた経験上、水平社時代の運動が激しかった部落に限って、戦後はマイルドになるという法則があるように感じる。ここに同和施設らしきものがないのはその影響だろうか。
なお、沓沢闘争の要求事項が上記の通り。
要求の理由は沓沢区の区有林は区が国から払い下げを受けたもので、当時金を出さなかった者でも一般の区民なら入会権があるのに、部落民にないのは差別だ、というものである。そうであるにしても、最後の「争議費用300円(今の価値で100万円程度)」の要求はどさくさ紛れではないだろうか?
事件の経緯を見ると、水平社も戦後の解放同盟と変わらないか、あるいはそれ以上のタカリ、さらにはテロ行為をやっていた集団ではないだろうか?またの機会に触れるが、当時も同じ感覚を持って水平社とは距離を置いた部落民も少なからずいたようである。
そして、現在の沓沢部落。『佐久地域の部落解放運動史』にあった写真通りの佇まい…というか、当時の民家のいくつかはそのまま残っているようにも見える。
この鳥居の向こうに見えるのが菊池山哉が記した白山神社。確かに台地の突端に位置している。
神社の内部は手入れがされている。
大日如来や稲荷らしきものも残っている。
神社の横にある建物、集会所かと思ったが民家のようだ。『佐久地域の部落解放運動史』の写真に写っているように見える。
右の古い建物も『佐久地域の部落解放運動史』の写真にあるものではないか?
現在も8軒程度で、以前は家があったであろう空き地も見える。
村外れに墓地を見つけた。
名字は全て山崎。明治より前からそうだったことが分かる。
比較的新しい墓石は大姉、居士だが、古い墓石にはやや低いランクの禅定門、禅定尼が刻まれている。いわゆる差別戒名らしきものは見当たらなかった。
戒名と、大日如来を信仰していることから、真言宗であろう。
警備の仕事を穢多と呼んでいたのは今で言うところの警察官を犬ポリ、ポリ公などという蔑称で呼ぶ事があるのと一緒ですかね。
今の日本だとヤンキー以外は警察官を侮蔑することあまりありませんが。
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羽田の日航と海保の衝突事故では、日航機に荷物として載せていたペットが犠牲になり、ペットの命を重く扱って、海保機に乗っていた人の命を軽く扱う報道がなされていますが。海保の者は動物以下に扱われていますけど。
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そんな報道ありましたっけ。
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宝永5年(1708)8月に佐久郡平原村から沓沢村へ、佐平と小平の兄弟を迎え入れた。それまで沓沢村に警備役は居なかったが、非人や乞食が来た時に悪さをしたら難儀なので、田野口藩と平原村にお願いして迎え入れた。その際、藩に対しては、村はなれに小家を作って住まわせる事と、その土地に課税される税も村で負担する事を申し添えている。
その後、元文5年(1740)には高野町村の牢守の添番・彦兵衛も沓沢村へ迎え入れた。
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藩の命令で百姓の逃亡防止も担ってましたね。
#d4bc88d3d01c668cb39bd6147a0c5327
>大日如来や稲荷らしきものも残っている。
掲載されている写真の石仏は、大日如来ではまず無さそうですね。宝冠の様なものから推測したかと思いますが。基本、大日如来は立像(りゅうぞう)ではなく坐像です。
また頭上の冠様のものが不鮮明ですが、衣の雰囲気といい馬頭観音かなと。案外、石造だと馬頭もいい加減な感じで…
#d838f5830e177d0606c03864d094eb75
宗派なんて、現地で聞けばいいだけなのに、、、
#d4bc88d3d01c668cb39bd6147a0c5327
新旧で戒名が違うのは宗派を変えた可能性があるのでは?
真言で禅定は使わないように思います。
#35cece504377edbd0ceadfddc47b218c
>水平社も戦後の解放同盟と変わらないか、あるいはそれ以上のタカリ、さらにはテロ行為をやっていた集団ではないだろうか?
結局そのあたりについて放置してきたのでいいイメージがないような気がします。(イメージではないこともあるようですが)
個人は何とも思わないがバックにそういう団体がいると思うと怖いと言う人もいますね。
#35cece504377edbd0ceadfddc47b218c
宮部氏得意の誘導もありますね。
事件の発端については差別案件であることは明らかでしょう。怒りに任せた暴力行為に至ったことは水平社というより現場にいた本人たちの資質でしょう。
宮部氏は一つの案件から全体を語ろうとするクセがあります。
また、宮部氏は賠償金=タカリと思ってるのでしょうかね???
だから裁判で負けても賠償金は払わないのかな?
法治国家ですから、、、、、、
#d4bc88d3d01c668cb39bd6147a0c5327
いつもの「一部の人」ですか。
部落に限らず元々マイナスイメージが持たれている集団なら不本意ではあるかも知れないが、尚更そういう理論で逃げでいては負のイメージは払拭できない。
世間はそんなに甘くないよ。一般的な人は現場にいた人の資質とは見ないのでは?
#35cece504377edbd0ceadfddc47b218c
そういう見方が偏見だと思いますよ。この事件は水平社がおこしたテロ行為でしょうか?
宮部記事より
>(水平社は)テロ行為をやっていた集団ではないだろうか
↑
こんなの宮部氏の思いこみと誘導ですよ。なにか処分が水平社に下ったのでしょうか?
まず、ことの発端は差別事件なのです。これの報復が行き過ぎたということでしょ。やられたらやり返すはいけませんがね。
#d4bc88d3d01c668cb39bd6147a0c5327
>「争議費用300円(今の価値で100万円程度)」
何を物差しとするかで変わるが、昭和5年の銀行員初任給が70円で、令和5年が205,000円とか。そこから換算すると878,571円。まぁ約100万円に近いんじゃないですか…
#d838f5830e177d0606c03864d094eb75