「夜も煌々と電燈の光が川久保村の空一ぱいに輝き、まるで不夜城のようでした」―いにしえの滋賀県の部落を記録した書、『滋賀の部落』にはそう記されている。1931年(昭和6年)当時の戸数は25戸134人、 1996年時点で72世帯と記録される。
確かにここは皮田村ではあったが、名前の通り窪地という比較的条件の悪い場所に位置したという以外、周辺地域との格差はなかったとされる。
しかし、 『滋賀の部落』 に書かれていることに、どこまで信憑性があるのかという問題もある。例えば、ある部落がどこかの村の枝郷だったら「本村に従属し支配された」となるし、独立したら「皮田との関係切りたい本村から追いやられた」…万事がこんな調子である。ちなみに、川久保は後者である。
川久保村が不夜城だったのは大正から昭和初期のこと。東京のにかわ屋で働いていた、川久保出身の西岡弥吉という人物が関東大震災で焼け出されて帰郷し、にかわ製造を始めた。部落の住民はそれを習い、川久保の主要な産業となった。
最盛期は昭和初期で、40戸のうち半数が工場を持ち、大きな工場では従業員120~130人を抱え、周辺の村から何百人も働きにきていたという。最盛期のにかわ生産高は村全体で年間5000万円。現在の貨幣価値に換算すれば、350億円くらいである。凄まじい一人あたりGDPということになる。
しかし、そもそも別の記録だと昭和初期の戸数が25で、主業は農業と行商とある。村の様子を見るに、どの家も比較的大きいが、過去にそれだけの大儲けをした村には見えない。
ただ、いずれにしても部落だから貧しいということはなかったと考えられる。『滋賀の部落』によれば周辺地域と同様に土地を持っており格差はなかったという。1996年の『同和対策地域総合センター要覧』でも生活保護世帯は皆無であり、周辺との格差を窺わせるような記述はない。
部落内には改良住宅が8戸あったとされる。確かにそれらしきものがある。しかし、その状態から見るに、既に住民に払い下げられているようだ。
『滋賀の部落』が書かれた1960年代には、廃墟となったにかわ工場が残っていたようだが、今はそれらしきものはない。代わり廃棄物処理業者やリサイクル業者がある。
本願寺派の教得時。長塚の浄土真宗大谷派のお寺と同じ山号の光明山であるのが気になるところ。
見ての通りの立派な寺で、檀徒が部落内だけとは考えにくい。
その近くには住宅案内図があった。確かに西岡という名字がある。そして、川久保特有の名字として姓農がある。実はこの名字は東京都の荒川区にも見られる。
おそらく、東京のにかわ屋で働いていたのは 西岡氏だけではないだろう。この村から何人か行っていたはずだ。
川久保は確かに皮田村ではあった。隣の山塚村が江戸時代まで武具を作っていたので、おそらくその材料を供給しており、にかわ製造もしていただろうと考えられる。しかし、その仕事は明治初期には廃れており、大正期に再興したにかわ製造と連続性がないのが興味深いところである。
ここが地域総合センター。さきほどの公園といい、公共施設が極めてよく整備されている。
そして、ソーラーパネルが。
部落でソーラーパネルをよく見かけるような気がするが、それは偶然ではないようだ。とある読者から寄せられた情報として、太陽光発電所を作るための条件として ①農地でないか開発許可が出ること、②土地が安いこと、③近くに高圧線があること、があるそうだ。この条件に部落はよく合致することが多いそうだ。①②は察していただくとして、この写真でも見える通り、確かに高圧線がある。
高圧線は幹線道路沿いに存在することが多く、部落は昔から存在するし、特に旧街道沿いにあることが多いので、必然的に高圧線が通っていることが多いということなのだ。
最後に墓地を訪れた。
西岡弥吉の墓を探してみたが、見つけられなかった。ただ、気になったのは昔の人の俗名に「弥」の字が使われている例が多いこと。阿弥陀仏にあやかったのかも知れない。
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