菊池山哉はこう記している。
○秩父本街道筋、毛呂郷の南の入口である。今は山の裾へ、耕地を求めて、次第に分かれて居り、山根村の下村曲輪と接して居る。
○白山神、
○毛呂の農家五十戸、山根村六戸。
○長瀬村の向ひ側であるから、向ひ村と呼んだが、今向井に訛つたと云。
先日17日に、さいたま地裁で、埼玉県内の大部分の曲輪クエストを消せという趣旨の判決が出たが、なぜか仮執行宣言が付かなかった。同じ埼玉県内でも三郷市のえせ同和地区のクエストは解放同盟側が請求に加えなかったので、それも対象にならなかった。
判決文では団体としての部落解放同盟の請求は棄却されている。部落解放同盟は自分たちは埼玉の部落民の代表者であるから埼玉県内の曲輪クエストを全て削除させる権利があると言っていたのだが、それについては裁判所は認めなかった。しかし、解放同盟員である池田三男氏個人の権利として実質的に埼玉県内の曲輪クエストを削除させる権限を認めている。

さて、毛呂山の古村については、毛呂山町立泉野小学校5年であった岩野清香さんが非常に重要な指摘をしている。
去年町内にあるお地蔵さんについて調べるため薬王寺というお寺に行ったとき、片隅に集められていたなかにあった風化し、摩滅していた角形の石塔が気にかかりました。町の図書館で町内の石仏が出ている本を見てみると、お寺で見た角形の石仏と同じものを見つけることができました。馬頭観音で天保10年に森茂吉という人が建立したと書かれていました。隣にあった如意輪観音坐像は、享和4年に脇坂徳次郎という人が村人の協力のもと建立したものだとわかりました。そのときは気に止めなかったのですが、お母さんと行った坂戸の図書館で見た、武州鼻緒騒動という漫画の中で、昔埼玉にも差別にたいして立ち上がった人がいたんだということを知りました。そこで、中心で頑張った人たちの中に茂吉という名前を見つけました。薬王寺で見た馬頭観音の建立者の名前でした。

作文にはこうもある。
武州鼻緒騒動とは天保14年に、私が住んでいる毛呂山町の長瀬にある向井というところに住んでいた、穢多と呼ばれていた人が隣町の越生に鼻緒を売りに行ったとき事件が起こりました。売りに行ったお店の人に鼻緒を安く買い叩かれ、抗議すると暴力を振るわれたことが発端でした。翌日向井村の人が越生のお店に抗議に行くと、お店の人が幕府のお役人に訴え向井村の人が97名逮捕され、江戸の牢屋へ送られ判決が下りるまでたくさんの向井村の人(49名)が拷問や毒殺などで亡くなったという事件です
森茂吉という人物に注目すべきだ。


長瀬で「森」という名字が集中するのは埼玉県道30号飯能寄居線の東側の辺り。

ところで、どうしてさいたま地裁は池田三男氏が関係する熊谷市上中条のみならず、埼玉県内の他のクエストの削除まで認めたのか?

裁判官が言うには、サイトでは関連記事が表示されるので、芋づる式にたどって他の記事から上中条の記事にたどりつくからということだそうだが、それなら上中条の記事だけ消せば他の記事からは到達できないのだから、全く以て論理性のない話である。


ゼンリン住宅地図によれば、墓地にあるこのお堂が薬王寺らしい。

ただ、周囲にあるのは古い墓石のようなもので、馬頭観音らしきものはない。宗派は時宗であろう。

再び裁判のことに話を戻すが、さいたま地裁が認めた損害賠償額は11万円である。判決文には被告が悪質だとか差別が深刻といった内容が繰り返し出てくるが、その割にはたった11万円なのである。
判決文を読むと、結局のところ裁判官は具体的な「差別の被害」を立証できず、その結果判決文で苦し紛れに筆者に対する人格攻撃を繰り返し、削除命令を正当化する、言わば「入場料」として11万円という最低限に近い金額を認定したのであろう。

判決では、10年近くも前に既に凍結されたTwitterアカウントで私が「アホが憤怒して発狂」と投稿したことを、これ見よがしに示しているが、当時の私の投稿の正しさを裁判所が自己補強していないか?

さて、周辺で古村の歴史について聞いてみたが、薬王寺や馬頭観音について知っている人はいなかった。


それどころか、武州鼻緒騒動や向井について知っている人にも出会わなかった。

ただ、「長瀬」と言えば主に県道の西側のことを指しており、東側のこちらは長瀬本村とはまた別ということなのである。菊池山哉のいう長瀬の向かいということについての信憑性は高まった。

武州鼻緒騒動については当地の人は知ってさえおらず、解放同盟や役所の同和関係部署くらいしか関心はないようである。そもそも、武州鼻緒騒動の経緯を見ると、発端は差別というよりは鼻緒の買い叩きという商売上のことであり、なおかつ先に騒ぎを起こしたのは向井の側であるようにも見える。
北本デジタルアーカイブスには以下のとおり書かれているが、いささかマルクス主義的な偏った解釈である。
県内でも天保十四年(ー八四三)に入間郡内で鼻緒騒動と称される大きな事件が起きている。この事件は、入間郡内の部落の者が越生今市村の市に下駄の鼻緒を売りに行き、そこで悪質な差別的扱いを受けたことが端緒であった。部落の人たちと今市村の村民との対立抗争はしだいに拡大して部落側に六〇〇人もの人たちが集結したため、ついに関東取締出役が事件の収拾に当たることとなった。しかし、その結果は部落の人たちに対する一方的な弾圧で、捕えられた者二五二人、うち江戸に送られた者が九七人に及んだ。裁判の結果、獄門・死罪・追放・手鎖等の刑が全員に言い渡された。しかも入牢中や帰村後に死亡したものが四九人に達したと言われ、取調べの厳しさは言語に絶するものがあったと想像される。これに対して今市村側では、事件当事者四人が手鎖、名主・組頭が過料銭といった極めて軽い刑で、あきらかに差別裁判であった。
この事件は、部落にとって貴重な収入源であった鼻緒の生産販売に対して、悶着(もんちゃく)を口実にこれを圧迫しようとした今市村、ひいてはこれに乗じて弾圧しようとした幕府権力に対して強力な抵抗を挑んだものであった。失敗に終わったとはいえ、差別に苦しむ人々が連帯して立ち上がった意義は高く評価されよう。
埼玉県の部落について、歴史のみならず具体的な場所について行政文書や書籍(特に解放同盟の)にしばしば掲載されることがあり、国会図書館デジコレやAIで容易に調査可能になっていることも裁判所はよく認識している。

それでも、裁判所は「新たな手がかり」と言って何とか筆者に責任をかぶせ、元のデータを提供した行政や解放同盟側、国立国会図書館やAI開発企業の責任からは目をつぶりたいようである。
判決文をAIで分析しやすいMarkdown形式に書き起こしたので、ぜひ各自AIで分析していただきたい。

いまとなっては、埼玉の片田舎であり、これと言っててがかりになるものは残っていないのだが、気になったのはこの集会所。「長瀬三区」とある。これが今の自治会名なのであろう。

次に出雲伊波比神社を訪れた。明治40年にここに古村の白山神社が合祀されたという。

寄付者の名前を見ると、森姓がいくつかあり、確かに古村が氏子になっていることが分かる。

この板には村名も一緒に記されており、「向井」という名前はさすがになくて長瀬になっている。

境内に白山神社の祠はなく、本殿の中に合祀されているという。そして、その白山神社は「長瀬三区」のものであった。やはり向井とは長瀬三区のことで間違いないのである。白山神社がもともとどこにあったのか分からないということだが、向井のあの墓地の隣の公園がそれっぽい気がする。

隣の葛貫にも薬王寺という寺があるが、こちらは天台宗。時宗ではないので、古村の寺ではないのではないか?

馬頭観音はここにあるのではと思ったが見つけることができず、寺には誰もいなかった。発見して解明されたい方がいればぜひ挑戦して欲しい。
なお、さいたま地裁の判決に対しては控訴した。




