菊池山哉は『長吏と特殊部落』で以下の通り記している。
○小笠原村の東北、瀧沢川(富士川支流)の河原である。西郡筋に位する。西郡筋とは駿信往還で、末は駿河へ通ずる。曲輪は今街道には面して居ない。旧道であらう。道路には、明らかに宿関の名残りが認められる。
○鎭守は稲荷神社である。不動堂であったとの説もあるが、造りは全く稲荷造りではない。或は白山堂であったらうか。
○この地の老人は、下宮地村の古市場村は、昔は全部曲輪であった。亦東山梨郡一丁田中村も全部曲輪であった。それから酒折村の宮前村も全部曲輪である。今は足を洗って町方へ入ってゐるが、昔しは何れも曲輪であったと言はれて居ると力むで居った。
又ここの老人達は、昔は長吏とエタとは異って居った。長吏は河原者やエタや道化考のお役人で、我々は小頭とも頭とも呼び、我々の取締りをして居った者である。
エタの役目は、牢屋の番人、刑場の始末、其外太鼓、雪踏,草履を作って、百姓はしなかった。長吏は清九郎と呼び、西郡筋全部の取締りであったと。
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記録にある、駿信往還がこの道路である。古村はこの道には面しておらず、滝沢川の河原だという。現在の地名は南アルプス市小笠原。小笠原の読みは「おがさはら」である。
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昭和初期には20戸あったというが、『未解放部落 増補改訂』によれば大阪や東京方面に転々と住所を変える人もいて、戸数は減少している。1964年時点で8戸。
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ただ、実際の戸数ははっきりしない。『未解放部落 増補改訂』によれば、1973年時点では実際は20戸あるが、古くからの世帯は5戸であるという記述がある。
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道祖神や井戸があることから、古くからの村があったことは間違いない。しかしこれらの由緒は分からないのだという。古村はあったのであろうが、昔を知る人は亡くなったか、あるいは心当たりのある人は寝たきりで、残念ながら話を聞くのは難しいだろうということだった。
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『未解放部落 増補改訂』によれば、昭和41年に古村の高橋某が櫛形町議会選挙に立候補したが落選したという。
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また、同書には1973年時点で精肉業が2軒あったことが書かれている。確かに現在も「ミート高橋」があるし、電話帳を調べると2002年まで「依田道男精肉店」があった。ただ、古くからの家以外にも精肉業があったことを匂わす記述がある。
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その近くに小さな祠がある。これが、菊池山哉が記した稲荷神社の成れの果てだろうか?
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付近には木工所や鉄工所もある。
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付近の細い路地のある辺りも古村の中と考えられるが、『未解放部落 増補改訂』の記述と現地の様子から推定すると、古くからの家と新しく移ってきた家が混ざっている。
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ここは浄土宗の源然寺。
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ここが古村の菩提寺で墓地であろうが、その規模は明らかに8戸よりも20戸よりも多い。
『未解放部落 増補改訂』は古村の戸数は少数か、かなり入れ替わっていることを匂わせているが、付近の方に聞いてみると、昔からの家はそれなりに残っているという。どれが古村の家なのかという認識が定まっていないのではないか。あるいは、曖昧にしようという意図を感じた。