『群馬解放 同和関係予算一覧表』という資料に昭和46年6月1日の『群馬県同和地区の現況』が書かれている。NewsChallengerで、その中の「長坂」という地区の探訪を依頼された。
当時の世帯数は52。混住率が100%とあるのは、住人全員が「同和関係者」であると当時の群馬県が判断していたという意味である。
現地を訪れてみると、意外に山奥の寒村であった。
地図を見ると、県道151号線の脇に神社の記号がある。フェンスがあるとはいえ、崖スレスレの細い道を上がるのは怖かった。
グーグルマップでは2018年の時点で鳥居が立っているのが見えるが、これはその鳥居だろうか。現在はこんなことになっている。
白山神社の例祭は毎年10月15日、実際はその前後の休日にやるのだそうだ。
戦後に県道151号線が出来るまでは、神社はもっと村の近くにあった。
今は見る影もないが、立派な社殿があったそうだ。祭りの日には各家で赤飯を炊いて、誰が最初に白山様に赤飯を供えるのか、競っていたという。
しかし、神社が現在の場所に移転してからは、徐々に祭りも小規模になった。
境内に全ての氏子の名前を彫った石版があったというが、今は見当たらない。この二十二夜塔には「高林」という名字が見える。
今は3人くらいで時々掃除をしているくらいだと言う。昔を知る人はほとんどいなくなってしまった。
二十二夜塔にあった名字の分布を見ると、意外に広がっていることが分かる。
地名で言えば、安中市大谷長坂。しかし、明治時代の地図には「入村」と書かれている。かつては、単に「入」と呼んだそうだ。
ここは長吏の村だったのか、と聞いても「知らない」と言われた。ただ、本当は知っているが何かを隠しているように感じた。『融和事業年鑑 昭和14年度版』には岩野谷村大谷更生組合の名前が出てくるので、融和事業が行われていたことは間違いない。
実は、ここから1kmほど離れたところにも、「白山比咩神社」がある。
さきほどの白山神社が、この神社から分かれたものであり、また「入村」自体もここから分かれたと伝えられているという。
例祭は入村の白山神社と同じ日にやっているという。しかし、安中市誌によれば白山比咩神社の例祭は3月15日と書かれているし、白山比咩神社近くの「上組」「坂組」は『群馬県同和地区の現況』には記載がない。歴史が変えられているのでは。
昭和10年の『経済厚生事例』に当地の融和事業の詳細が記録されている。
かつての主業は農業。とは言っても、山間のわずかな平地を開墾して細々と営んでいたようである。
昭和初期の時点では、小学校の就学率が23%で、借金を抱える住民が多く、税金を滞納し、酒浸りになるなど風紀が乱れていた。そして、昭和8年4月に中央融和事業協会の更生地区に指定される。
事業の効果はてきめんで、翌年には小学校の就学率が75%に向上、税金の滞納はなくなり、住民は貯蓄をするようになった。農閑期を利用した副業を奨励し、現金収入を増やし、昭和10年には負債整理組合を組織した。
部落には、高台の山中のようなところに家がある一角がある。
空き家、廃墟も多いが…
もっと荒れ果てた場所を見てきた筆者としては、ここは山中にしては寂れていない方だと感じた。急斜面だが、土台をコンクリートで固めて整備して家が建てられている。
高台から、メガソーラーが見える。
住民によれば同和事業のようなことは聞いたことがないという。ただ、『群馬解放 同和関係予算一覧表』に掲載があることから、いくぶんか予算が出ていたであろうと推定される。隣保館や教育集会所のような同和施設はない。
元々、真面目な村民が困窮していた部落だったんですね。好感が持てます。
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女性は魅力的な人が多いですか?
#06901da6a8f6261b5b2245d3004b5c36
安中は白山神社が多いところで、もう50年も前になるが、当時の安中市長の湯浅正次(湯浅家は同志社を創立した安中出身の新島襄の弟子かつ有力な後援者で、安中の名家)のとき、たしか昭和50年だったと思うが、当時の安中市内の屎尿収集とゴミ収集の事業は、部落の特権として優先的に仕事が与えられていた。それを湯浅市長は屎尿収集の仕事はそのまま部落の特権として残し、ゴミ収集事業を部落から取り上げ、一般競争入札で事業者を決めた。
これを恨んで、屎尿収集事業を取り上げられた部落の者たちが、早朝にバキューム・カーで安中市役所へ乗り付けた。まだ水洗便所が普及していない時代なので、市役所の中庭に早朝にバキューム・カーが駐車されていても、登庁する市職員たちは何も不審を感じていなかっという。
で、午前9時少し前に、安中市内の中心部にある自宅から徒歩で登庁した湯浅市長が、中庭から市役所の玄関へと入ろうとしたとき、待ち構えていたバキューム・カーの乗員たちがホースを構え、湯浅市長に目掛けて「逆噴射」したという!みるみるうちに、湯浅市長は全身う○こまみれになったという。その後、男子市役所職員たちは泣く泣く後片付けに従事させられたという。数カ月に渡り、市役所を中心とした安中市中心部は異様な臭いが充満していたという!(恐)
「屎尿収集事業を取り上げられた」(誤)
↓
「ゴミ収集事業を取り上げられた」(正)
ただ、気になったのは安中には部落と無関係の白山神社も多くありませんか?
大谷の白山比咩神社もそうではないかと思います。
高林姓と決めつけてといて何言ってるんだ?
#e7208553c740ef0257ab698eb7212511
宮部さんへ
>大谷の白山比咩神社もそうではないかと思います。
その根拠は何か?
当地は部落であるとの文献が見つかりません
一般地区であろうと思います
>一般地区であろうと思います
なら、なぜ「曲輪クエスト」(部落探訪)に取り上げたのか?一般の人たちは、「曲輪クエスト」に取り上げられている地区は「部落」だと認識しますよ!
浅草弾左衛門配下の曲輪の白山で菊理媛尊を祀る社は少ないはずだ(割と一般もそうだけど)。
殆どの曲輪の白山は、伊弉諾尊・伊弉冉尊の二神を祀って済ませている。
いかにも弾左衛門からの命令に、取り敢えず対応しといたという感じだ。
加賀の白山比咩神社を勧進するのは、それなりの寄進額が伴う様で、相州下古沢の太郎右衛門が、わざわざ菊理媛尊を勧請する際には、1769年(明和6年)当時で総費用で二十両以上かけていたとの記録もある。
ちなみに1769年(明和6年)は、弾左衛門が配下の部落に白山神社を祀るように指令したとされる年だ。
この3年ほど前、弾左衛門の裁定により太郎右衛門配下の小頭達は、半数近くが大磯助左衛門の配下に移管されている。
原因は太郎右衛門の所謂「パワハラ」だったそうだ。
太郎右衛門がわざわざ加賀から金掛けて勧請したのは、弾左衛門への忖度って所でしょうな。
もう10数年前になると思いますが、大谷地区在住の40歳過ぎのオッサンがバイクの族車みたいので安中市役所の駐車場で大暴れして逮捕された事件がありましたね。
いい歳こいて族車も笑いますが、いまだにごみ収集の恨みが引き継がれているのですかね。
#c32481522c1c5dcefad0684f7fbad26d
香川県に、再訪される
予定は、ありませんか?
香川県 木田郡 三木町にある
天台宗 山大寺の
平井哲眼 住職は、
今 世間を賑わしています。
なんでも、滋賀県 大津市の
律院 大阿闍梨の
一番弟子で、
とある 尼僧に対して、
11年間も、●●●、
マインドコントロールを
していた疑惑があります。
取材して下さい。
#524f9b581881729af94c71f4e83fb119
此処とは関係ないリクエストは専用フォーム有るやろボケ
#bcf09e5dff84051abf7c2f5ea477e35b
詳細を連絡フォームからお送りくださいませ