現時点で40歳くらいより上の大阪人には「ぼくたちの町にはピッカピカの新幹線がとまるんや」と言うとピンとくるらしい。新大阪駅周辺が同和地区であることは、大阪ではよく知られた事実である。
現在の地名で言えば西淡路1丁目および2丁目のあたり。1935年の記録では日之出町という180戸の部落があった。同和地区としての呼称は日之出地区である。
この部落は理由があって、筆者が小学校高学年の頃から、年に1度はブラブラ歩いていたような記憶があるので、90年代の様子をうっすらと覚えている。この啓発小学校の周辺には「越境入学はやめましょう」という張り紙がベタベタと貼ってあった。
この啓発小学校の場所は飛鳥地区と日之出地区の境界辺りにあり、小学校の場所自体が同和地区と言えるかは微妙なところである。
昔の新大阪駅周辺は同和地区の内外関係なく不法投棄だらけだった。線路沿いや植え込みにはテレビや冷蔵庫などの壊れた家電製品が放置され、道路に放置された廃車は来るたびに少しずつ部品が外されていた。
さすがに今もそんな状態ということはないだろうと思ったが、同和対策の公営住宅の脇の道はこんな状態である。
無論、地区全体がそのような状態ではないのだが、ここまで汚いまま放置されている場所は同和地区外にはない。
同促の掲示板には何も貼られていない。
診療所は閉鎖されている。
老人福祉センターも人気がない。
福祉センター内の石碑には例のあのフレーズが。
公衆浴場は閉鎖されていない。昔ほどではないが、周囲の銭湯よりも安い料金設定である。
歩道橋の上から撮影。広い空き地と公営住宅があるのが日之出同和地区。それに対して道路を挟んだ左側はビル街になっている。
新大阪駅はピッカピカの新幹線だけでなく、地下鉄もあるし在来線もほぼ全てが停まる大阪の玄関口。商業地としても住宅地としても最高の場所のはずなのだが。
ここは正徳寺。昔からある浄土真宗本願寺派の寺である。かつては「東宮原」という名前だった。大正期に日之出町と改名。この名前は部落改善事業と関係しており、未来に向かう明るい希望を表現したものだ。 戦後、部落の中を突っ切るように東海道新幹線が建設された。
ここは共同墓地。名字は様々である。
東海道本線をまたぐ歩道橋。昔、ここには解放同盟日之出支部が部落にまつわる様々なスローガンを掲げていたため、同和地区であることが丸わかりであった。ビル街がある線路の向こう側はかつては「南宮原」という村で、部落外である。ビルの間に今でも昔農家だった豪邸がいくつかある。その辺りの住民からは「線路の向こうは柄悪いで」と言われたものだ。
しかし、90年代は「南宮原」辺りの銭湯に行っても、かならず何人かは体中入れ墨だらけの人がいたし、 筆者から見れば部落の中も外も柄が悪かった。しかし、今となってはゴミが散らばっているような場所は部落だけである。
ここは東淀川駅。新大阪駅から歩いてすぐの場所にあり、大阪人からは不要な駅の筆頭に挙げられる。しかし、新大阪駅が出来る前からあったので、地元の声に押されて残さざるを得なかったらしい。
昔は東淀川駅近くの商店街も賑わっていたが、今は踏切が閉鎖され、閑散としている。
ここはかつての青少年会館。今は閉鎖されている。そして、その敷地にもここが部落であることを主張する石碑が。
かつて解放会館があった場所にはこのようなメールボックスが。
日之出支部というのは、もちろん「部落解放同盟大阪府連合会日之出支部」のことである。かつて、ここの支部長だった人物が一般社団法人大阪市新大阪人権協会の女性職員にセクハラをし、職員が退職に追い込まれたことがあった。
それを恥じて本当の名前を隠すのはいいとしても、日之出支部を名乗るならゴミ掃除くらいの地域貢献はしてもいいと思うのだが。
よく読むと不思議な張り紙。住人であれば不正行為をしても通報しないということか?
セクハラの加害者ではなく被害者が退職に追い込まれるとは二重の人権侵害ですね。ひどい話です。
かの人権問題の専門家、自称「歩く水平社宣言」の川口泰司君はなぜ支部長や前支部長を糾弾しないのですかね。
ttps://www.youtube.com/watch?v=Hc1-ckmoVNQ
ここに墓地が出てきますね。
地区内のお寺の裏手にあり、地区内の共同墓地なのに、
地区外の人のお墓もあるんですね。
これ妙なんですよね。塀によって墓地が隔てられてるとは言ってますが、一方が日の出共同墓地、もう一方が南宮原墓地と名称が違ってる事には触れてないんですよね。
元々同じ墓地だったのか別々の墓地だったのか分からない。
少し調べてみました。
『新大阪の建設』(大阪市都市再開発局 1975年)によると、この新大阪駅付近の再開発事業の時に、事業地区内11ヶ所の墓地はすべて移転しています。
墓地の移転事業は昭和41年10月に始まり、日之出墓地に関しては昭和47年8月10日に350基の移転が完了、入魂式が挙行されています。
444頁に地図がありますが、これを見ると、事業開始前は宮原墓地と日之出墓地が同一の場所で、区分がされていません。
恐らくこれが、Youtubeに挿入されている昭和30年代の墓地のモノクロ映像で、同一の場所ではありながら実質はああして区分けされていた、ということだと思います。
この元の墓地の敷地は、この時の区画整理事業でほとんどが府道134号になっており、結果としては、宮原墓地は北側に、日之出墓地は南側に移転して、間を道路で切り分けたような形になっています。
Youtubeの映像で、日之出墓地と隣接していながら塀で分け隔てられていると紹介されているのはこの宮原墓地ではなく、南宮原墓地だと思います。
南宮原墓地は、東淀川消防署西淡路出張所前の交差点の西北側付近にあったものを日之出墓地の新しい敷地の南西に移転させたので、おそらくこの時に、土地の権利や利用の関係上、塀できちんと仕切ったのだと思います。
なお、446頁の表によれば、宮原墓地の従前登記面積は452.00、仮換地の実測面積は463.84、日之出墓地が924.97から1,250.85、南宮原墓地が512.00から381.84(単位は平方メートル)です。
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「コロナウイルスと当館、大阪コロナホテルは全く関係ありません…!!!」というツイッターで注目を集めた大阪コロナホテルの真ん前の地区ですね。お金が無い頃に何回かお世話になりました。またここは絆会の織田絆誠氏の母親の出身地区だそうです。
こんにちは。
私はここにいう宮崎村のちに東宮原・日ノ出町住民の末裔です。
先祖のお墓も「正徳寺」にあります。そこで長く疑問のあることがあります。
『西成郡史」の記事を引用
古へ此部落を指 して宮崎村と称 したるは、蓋 し中島惣杜の存する所に接せ
るより出でし名なるべし、貞享 2(1685)年 3月 5日同地の真宗正徳寺へ、
真本山なる本願寺より付与せ し三朝七高僧の画像軸物の裏書にも、宮崎村
と香 しありき。又此所は其以前禅林寺と云ひし崇禅寺の別坊とも見 るべき
-寺のありLより、地を称 して禅林寺と云へり、禅林寺は-名西寺とも云
ひしかば、之を直ちに地に移して西寺と呼べり、本大字は此の如 く其名を
種々に呼び倣 したるの外、尚又革多村の称呼もありき、悠 くて何時の頃よ
り地に民家あるを見 るに至 りしかは許かならざれども、今より二百数十年
前め延宝土 (1674)年に正徳寺の設けられ し事実あれば、其頃巳に-村を
成せ しことを知るべLと難も、徳川時代に於ける此部落の状態は、所謂五
人組錠などの適用 も又は人別魂の事なども、全 く行はれ居 らざりLと云へ
ば、今其沿革を詳かにすること能はず、
ここにいう五人組捉の適用 も人別調も全 く行なわれなかった、とは何を意味するのでしょうか。
かわた・えったぼし地区の中でもさらにきつく蔑まれていた部落だったのでしょうか。
先生のご考察があれば是非お聞かせ頂きたくお願い申し上げます。
申し訳ございません。私も正直なところ分かりません。
分かっているのは南宮原村の枝郷だったことです。
ありがとうございました
日之出町共同墓地を覗いたみたいですが、そちらは一般地区の墓地で
隣接する南宮原共同墓地が被差別部落の墓地では。確か死んでも差別
されて塀で分け隔てられていると言われているはず。規模も南宮原の
方が小さい。
You Tube にそれが分かる動画があります。
https://youtu.be/Hc1-ckmoVNQ
それは知りませんでした。墓地の名前で判断してはいけないということですね。不覚でした。
結婚を期にこちらに引っ越して来ましたが、昔ながらの嫁いびりが当たり前になされている地域で近所の話しが出来る人に相談しても話しになりませんでした。
僕は婿取りでもなく相手側の姓になってもないのに昔ながらの風潮か精神的に病んでしまう様なことを姑にされ警察、役所に相談するもココを出ざる得ない状況にもなりました。
実際、発展の妨げになってるのも人的事情だとも感じています。
こういう排他的部分なく皆が住みやすい場所になれば必ず発展するのに…
と、思うと残念でなりません。