学術・研究:部落探訪(165) 京都市南区久世大築町・大藪町

アバター By 鳥取ループ

近畿大学の奥田均教授は「 先祖代々江戸時代は武士の出身だ、そんな人がおられたとします。あ、そうですか。でもね例えば今度京都に引っ越しをされる、その時京都の同和地区のど真ん中に引っ越しされてご覧なさい。物の40、50年そこに住む、子供が生まれる、孫も生まれる親子、孫、三代も同和地区のど真ん中に住んだら世間は間違いなくあなたを部落出身者だという風に見なし始めていきますよ」と講演で語っている。果たしてそうだろうか。

今回訪れたのは京都市の久世地区である。久世全体が部落というわけではなく、現在の久世大築町、久世大藪町が部落に該当する。1935年の記録では147軒、「築山北條」という名前の部落として記録されている。

久世学習センターの前には駐車禁止の看板があるが。

早速目についたのがこの軽自動車。蜘蛛の巣が張って、タイヤが潰れ始めている。

警察の警告書がワイパーに挟まっている。左側には朽ち果てた警告書がもう1つ見える。かなり長い間放置されているようだ。

この団地の駐車場もよく見ると…

このワンボックスカーは2010年のストリートビューでも同じ場所にあるので、少なくともほぼ10年放置されていることになる。

この軽バンもタイヤが潰れて車体が錆び始めている。

駐車禁止の看板の意味がない。

「するな! 不法投棄」とあるが、堂々とされているように見える。

久世は桂川沿いにある。堤防脇の公園では親子が遊んでいた。

桂川の堤防道路。

当然、公営住宅は同和対策として建てられたものだ。現在は同和関係者でなくても入れるようになっているが、よそから入る人はあまり多くはないという。

この団地がある辺りは久世大築町である。「築山北條」と過去の地名にある通り、現在の久世築山町の北側に部落があった。地元の方によれば、築山の地主の小作人だったという。

ここが久世いきいき活動センター。かつての隣保館である。現在は指定管理者による民間運営になっていて、休日も空いている。地区外からの利用も多いのだという。

しかし、このような大きな看板があるので、同和施設ということがよく分かる状態になっている。

さらに、かつて部落だった場所の中心へと向かう。

地区内にはいくつか公園があるが、どこも綺麗に手入れされている。

ここが、浄土真宗本願寺派の金藏寺。

岩井、桝本という名字が多いようである。桝本頼兼元京都市長もこの部落に縁があるのだろうか?

ここはまさに部落のど真ん中なのだが、新築住宅が建てられている真っ最中だ。住民は、このようなことが見られるようになったのはほんのここ数年で、昔は考えられなかったと感慨深げに話す。以前は住民は誰もが顔なじみだったが、今では全く知らない人と道ですれ違うことが多くなったという。

奥田均は、この新しいアパートの住民をあつめて、件の講演をしたらどうだろうか。

久世大藪町は田畑と、新古の狭小住宅が入り混じっている。この辺りは久世築山町が地主となっている小作地だったが、戦後の農地解放で大築部落の住民のものとなった。そして、都市化が進むと住宅が建てられるようになった。大築部落の住民が豊かになったのは、このような要因もあるという。

このような家も少数ながらあったが、部落とはあまり関係ないと思われる。

ここは部落の墓地で、村からは少し離れたところにある。住宅に囲まれているが、昔は田畑に囲まれていた。

享保とあるが、あまり風化していないのは、昔から風雨を避けるように屋根があったからだろう。

監視カメラもあり、いたずらされないように大切にされている。

ここは公衆浴場。

利用料は450円と、民間と同じ基準に合わせており、極端に安いことはない。それでも、78%は税金で運営されている。

学術・研究:部落探訪(165) 京都市南区久世大築町・大藪町」への10件のフィードバック

  1. アバター音野

    丁度久世の結婚差別事件について調べていたところでした。
    久世大薮町の一部も部落とのことですが、なぜ久世大築町と大薮町の
    二つの町にまたがる形になったのでしょうか。
    また大薮町の一部も部落というのは過去の航空写真や地形図から判断されたとのことでしょうか。

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    1. アバター青空文庫耕作員

      Google Mapで現在の久世大薮町を検索すると、下記の明治末期の地図の城屋敷集落まで含まれていることが判ります。また、大藪の名は地図の集落のないところに記載されています。
      つまり「大藪」の名称は集落を示すのでなく、久世村の東の広い河川氾濫地域(エリア)一帯を示していると考えられます。(時代が下ると、大藪の名称記載は南に下りて現在の大藪町と一致する)
      http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=34.957890&lng=135.724664&zoom=16&dataset=keihansin&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2
      そうすると、現在の「大築」の名称も古い地図に現れた形跡がないので、大藪築山の合成であろうかと推測されます。現在の「大築」と「大藪」の境界は木下神社の南北に伸びる参道となっており、大正(1922)の地図でも集落の境界であるのが明瞭です。
      明らかなことは、
      1)古くは田畑が集落を囲み、現在はその田畑は宅地に開発されている。
      2)田畑の所有が被差別部落民でなくとも、小作で営農していた場合は、第二次大戦後の農地開放で土地を取得できている場合がある。
      3)取得した土地を外部の人間に宅地として売却・換金できる。
      4)売却した人間が外部に転居すれば、その地域に歴史的被差別部落民がいない場合が発生する。
      等の理由で、歴史的被差別部落の境界は明瞭に判らなくなる場合が多いということです。

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      1. アバター青空文庫耕作員

        上記は、示現社さんの記載とは関係なく、古地図と比較して考察したものです。

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    2. アバター鳥取ループ 投稿作成者

      全国部落調査に乙訓郡久世村大薮築山とあることと、立地から大薮は久世大築町住民の土地であると考え判断しました。
      しかし、かなり前から大薮は新興住宅地のようになっていることから、同和地区の範囲かと言えば違うかも知れません。

      返信
  2. アバター

    今昔マップで公開されている地図より古い明治22年の測地図(仮製測地図)ですが、これには村の境界線が書かれています。
    それによると、大築町の当時の集落の真ん中を大藪村と築山村の境界が貫いています。そのため区画整理のときに、新しく大築町として発足したのではないでしょうか。
    この仮製地形図の境界線はかなりいい加減なものではありますが実際に境界を確定させるのにかなり参考にされているように思います。(特に、同和築指定範囲において)
    ちなみに、大藪村は木下神社の西側の集落が本村、築山村の南西に見えるのが大藪村の枝村だと思うのですが。
    改進地区は移転したところが、竹田村と深草村にまたがっていただけで、竹田から深草に向かって染み出したわけではないと思います。
    父の祖母(曾祖母)が久世村(中久世)出身だったので87歳の知人に聞いてみましたが、久世で作られていた大根は聖護院大根で、葉っぱも漬物の材料になるため、切り落とさずに、そのまま出荷していたそうです。子供の頃は村全体が貧乏で売り物にならない大根で、普通に大根飯を食べていたそうですよ。戦争になると米の供出で、さらに苦しくなり、くず米も貴重な食料だといってました。
    部落に限らず、当時はそういう生活が当たり前だった時代でもあります。
    母の実家(梛の宮、壬生寺、新撰組の屯所等の近く)では、芋粥(といっても、芋ではなく、芋の蔓や葉っぱしか入っていない粥)が日常だったそうです。
    京都人の気質として、周囲に見栄を張る傾向が強いため、そういったことがあまり知られていないように思いますね。
    ただ、家禽はどこの家でも飼育されており、動物性タンパクはそこそこ取れていたようです。

    返信
    1. アバター青空文庫耕作員

      大藪が大字に相当するものと誤解していましたが、
      公式な字の編年
      https://kotobank.jp/word/%E5%AD%97-24958
      とは前後しますが、紹介された仮製測地図は 1890 (明治22年測量) のもので、市町村制施行当時と理解すると、そこでは既に「大藪村」と「築山村」が独立して成立しているので明確ですね。
      また、「上久世村、久世村」に対して「字下久世」でもある。
      今昔マップの最古版は 1910 (明治42年測量) で、久世村に合併後に新たに「字大藪、字築山」となり、「字城屋敷」が地図上に記載されたということか。
      疑問点としては、凡例表記は今昔マップと同等かと思いますが、道路 (小径) と耕地 (不定区画) が点線で表記されるので、畦道が所有区画を示す場合が多いとしても不明な部分が多いですね。(現在の区画でも所有者の意思あるいは多数の強制によって飛び地が生まれている。”http://www.chiseki.go.jp/about/touki_chizu/index.html” の状況だと、土地所有者同士の地面標識の承認でもないと確定しないんでしょうね。)
      「大築」集落は、築山村の墓地が大藪村に食い込んだ部分の周囲に形成されており、集落の密集具合が周辺の村と異なります。西国街道沿いの大藪集落とは異なる理由だったと想像されました。本村でも貧しい食事とのお話は、農地改革前はざっと農民の半数が小作民であった時代では、なるほど、と思いました。
      https://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0138.html

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      1. アバター青空文庫耕作員

        上記の最後の第二次農地改革の説明は、価格割合が書いてないですね。
        無料同然ということで、気にならなかったんでしょうね。
        10アールの水田が750円で24年ローンだそうです。(下記のうち、日本大百科全書(ニッポニカ)の解説に具体的に記載されてます。)
        https://kotobank.jp/word/%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9-111966
        経済産業研究所論文で強調されているのは、GHQの物価スライド制の提言に応じなかったという部分です。20年後にはインフレで小学生のお小遣い1ヶ月分以下になる訳ですから、示現社さんなどは官僚が嫌いとのことですが、農林省が「火の玉」になって農地改革を推進したんだそうです。(私は公務員やったことないので、へぇという感じですが)

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    2. アバター鳥取ループ 投稿作成者

      ありがとうございます。大根飯食っていたのは部落だけではなかったのですね。

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    1. アバター青空文庫耕作員

      舁揚部落は喜田貞吉の書籍に記載されているそうですね。著書の多くが青空文庫化されています。
      https://furigana.info/w/%E8%88%81%E6%8F%9A:%E3%81%8B%E3%81%8D%E3%81%82%E3%81%92
      舁揚部落の成立が「墓処の世話人」として考察されていたことは、上記を見て知りました。
      私が喜田を知ったのは「遠州地方の足洗」https://www.aozora.gr.jp/cards/001344/card54435.html
      という作品で、明治期の解放令で静岡県西部の穢多村の幾つかが、村ごと一般の農村に転換した例があったことを紹介していたからです。
      私は同和教育を受けていないと思っていたのですが、50年前にこの話を小学校の教師から聞いたことを思い出しました。(解放同盟の運動がなかったので、まるでおとぎ話の様な記憶になっていました)

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